万華鏡の世界

自分と自分と時々君

人々は音楽のどこを聴いているのか。音楽の聴き方

『音楽の聴き方』という本があるように(内容はほとんど忘れてしまったが)、音楽には聴き方の型が存在する…という説がある。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

 

 曖昧な表現をしたのには理由があって、音楽は何の予備知識もなく聴くべきだ!という意見もややあるからだ。おそらく予備知識なしで聴くことは、聴くというより「感じる」という表現が適切ではないかと思う。音を音響として、響きとして体で感じるといった具合だ。音楽を分類してそれごとの聴き方で聴くというより、感じるままに聴けば良いのではないか、だから聴き方なんて存在しない!などという話になるわけだが、それもまた1つの聴き方の型にすぎないともとれるわけだ。

それに、そのように「感じるままに聴こう」と発言した人の好きな音楽に着目すると、実は共通項があって聴き方の型が見えることもある。例えば旋律を中心に聞いている人は、伴奏にはあまり意識が向かない。声を聞いている人は、その曲がどういう形式であるとか、編成がどうとか、歌詞の意味がどうとかまで考えていないことがある。本人は無自覚だがそのように人には聴き方の癖があることに留意したい。

これは作り手にも同様のことが言える。様々な要素が絡む以上、作り手はさすがに「◯◯を意識しない」といったことは聞き手よりは少ない。作り手の多くはテンポや旋律や、和声や、リズムや、形式など様々なところに配慮をする。しかし、作り手にもまた、聴き方の癖が存在している、あるいは主張したい部分がある。コードを重視して作ると旋律がぎこちなくなったり、ベースラインを意識した結果メロディはシンプルになったりとパターンは様々である。

では、その中で実際どのように音楽を鑑賞すれば良いのか。「適切な音楽の聴き方」と表現してしまえば、不適切な音楽の聴き方があんのかよ、という話になるので、鑑賞の自由の妨げにならないようにそうは言わないが、音楽がより面白く聞こえる聴き方があったら良いな、と私は思うのでこういう聴き方もあるよと、提案という形にしたい。

大前提として音楽は一曲一曲が違う。生まれた時代や、どんな文化のもとにできたものかといった背景や、編成、形式といった内容がそれぞれ異なる。そこを掴むとより深く音楽が鑑賞できる、かもしれない。音楽を鑑賞するということは、音楽に没入することであり、陶酔する側面があるが、音楽を理性的に捉えるということはその側面からやや離れることになる、それは一概には良いとは言えないかもしれない。そのため曖昧な表現を使った。ただ、今までなんとなく聴いていた人にとって様々な要素を意識するということは、それまでと違う音楽体験ができるわけだ。これは音楽が好きならたまらないことなのではないだろうか。知らなかったこと、なんとなく曖昧だったものが鮮明になる、分かるという感覚。それはきっと楽しいものになる。

と、ここまで話して大前提からいきなりまとめに入ってしまったが、何が言いたいかというと、曲は意識すべき部分というものがそれぞれで異なるという話だ。「~べき」と表現するとやや語弊があるように思われる。その音楽はどこを聴かせたいのかという点であろうか。傾向として、クラシックなら和声を中心にアナリーゼしようとか、ボーカルがメインのジャケットのCDならボーカルの歌声や旋律を中心に聴こうとかそういうものはすぐに出てくるが、もっともっと聞き所はあるはずで、それを探すことが新しい鑑賞の仕方に繋がるし、曲を聴くことの面白さが増えていくきっかけになるに違いない。

次に、様々な音楽のいろんな要素を意識して聴く前に、自分の聴き方の癖がどうなっているのかを知ることが非常に重要になってくる。これは各々がこれまでどんな音楽体験をしてきたかで違ってくる。例えば、ある民族音楽しか聴いてこなかった人はその民族音楽的な音楽の聴き方しかできない。我々は義務教育で音楽教育を受けているため、そのような人はまず日本にはいないと思われるが、西洋音楽に触れたことのない人にとっての音楽とは、そもそも音律から何からがまるで違う世界にいる。そんな人がいきなり西洋音楽を聴いても「これは音楽ではない」と思うか「今までに触れてこなかった全く新しいものだ」と思うだろう。おそらく私たちは普段、西洋音楽を音楽だと捉えていて、それとは別に日本の音楽(民謡や童歌など)や民族音楽を別の枠組みの音楽と捉えている。

西洋音楽を音楽として捉えている場合、12音階であることや平均律であることというのは言葉を知らなくとも、感覚的にごく当たり前のこととして身に付いている。この根本から意識をして聴くことも面白いが、深くは突っ込まないこととする。(音楽をやる者にはぜひ一度は突っ込んで欲しいところである。)問題は、西洋音楽を音楽として聴くにあたって自分は何を重視しているのかということだ。

「この曲好き」「曲の良さを伝えたい!」となった時に人に伝える言葉は何であろうか。「歌詞良いから聴いて!」「ドラムかっこいい!」と自然に聞き所を人に話す場合もある。「何か分からないけど良い」ということもある。何か分からない良さを人に伝える時を除いて、良さが伝えられる場合、自分の聴き方の型はその言葉の通りとなる。楽器をやっている学生は、やはりその楽器に注目しているケースが多い。逆に言うと、他のパートの音を、聴いているメインのパートの背景にしがちである。この癖を自覚して他の音を聴くだけで違った世界が開けてくる。

問題は「何か分からないけど良い」場合だ。何か分からない時、好きな曲を集めて共通項を探ると何か見えてくるかもしれないし、やっぱり見えないかもしれない。何を学べばその良さが分かるのか、それが分からない。その場合は音楽訓練を受けている人に助言を求めるか、欲しい情報がありそうな分野から手当たり次第学べば良い。そこまでの熱意がない場合は、特に何もしなくてもそれはそれで良いと思う。

自分の聴き方の癖が分かったところで、ようやく新しい聴き方の型を手に入れる下地ができる。「自分は旋律重視で聴いていたんだな」「好きなコード進行というものがあるんだな」「こういう音が好きなんだな」というように、自分の聴き方の癖が分かると、何を意識していないかが見えてくる。そこを意識することで、様々な音楽を受容できるようになったり、今まで聴いていた音楽がさらに魅力的になったりする。複数の要素を同時に意識して聴ければ尚面白いかもしれない。

そして、普段聴かない音楽に触れると、新しい聴き方の型を見つけることがある。西洋音楽を一般的な音楽としてこの記事では定義したが、それに属さない音楽も多く存在している。そのような音楽に触れることもまた、鑑賞の楽しみを増やしてくれるだろう。また、音楽の話を人と共有する時も、音楽の新たな一面に出会うことができる。人から紹介された聴いたことのない音楽に触れれば新鮮に感じるのは当たり前のように思われるかもしれないが、それは少し違っていて、自分とは異なる聴き方の人が聴いている音楽だから新鮮に感じるという場合もある。聴き方の型を意識し、人と音楽について話すことで聴き方の型が増えていく。

 

私の興味のひとつとして、人々が音楽の何を、どこを聴いているかという問題がある。好きな音楽を示せても、その音楽のどこが良いのかまで説明してくれる人は少ない。音楽を陶酔するもの、そのような悦楽を求めるためだけのものであると考える場合、「何か分かんないけど良いもんは良い」という姿勢を崩そうとする人は極めて少ない。なぜなら分かってしまったら楽しみが減ることになり得るからだ。音楽の神秘性は一見知らないことにあるように思われがちである。(知ったところで分からないという感覚になる人は稀有。実のところ音楽はいくら分析したって問いかけに他ならないものであり、答え(分かるという感覚)は見つかるものでないと私は考える。)ただ、本当にそれが音楽の良さであるかは疑問であるし、かといって音楽を純音楽的に、内容を重視して聴くという聴き方が絶対に良いとも思えない。音楽鑑賞は読書よりも容易であると捉えられがちであるが、そうでないのかもしれない。音楽の要素として見つかってないものがまだ何か存在するかもしれないし、上記のように要素ごとに意識して音楽を聴くという聴き方の型自体もそのまま正解であるとは言えないだろう。しかし、そのようにして、聴くということが何なのかを探らなければ音楽の発展は見込めないだろうし、できれば多くの人がより真摯に音楽と向き合ってほしいなと考えている。そうすることで、音楽はより豊かに、多様になっていけるのだ。