万華鏡の世界

自分と自分と時々君

音楽は何かの役に立つのか

「◯◯は何の役に立つ?」という話、結構各方面で繰り広げられているし、私があえて書くことでもないような気がするのだけど、音楽をやる立場としては無視できないことであるため、書いてみようかと思う。始めに述べておくが、私は「役に立つ」という言葉が好きではない。それは、芸術や勉強は「役に立つ」からやるものではないからである。後にも記述するが、「役に立つ」や「価値」という言葉はビジネスや物質的なこと、つまり即物的なものに普通は使われる言葉であって、芸術や教養のようなものには適用されないのが一般的である。それを踏まえた上で、あえて使ってみたい、考えてみたいと思ったのだ。即物的でないものには本当に価値がないのか、役に立たないのか。それを今一度見つめてみようと思う。

音楽は食べ物のように「生きるために必ず要るものではない」からお腹が空いて今にも死にそうな人に与えても何ら役には立たない。お腹が空いている例でかろうじて役に立つのは、まだ多少の余裕があって何時間も耐えなければならない時、音楽で気を紛らせることができるという程度であろう。しかし、緊急性はないにせよ「生きるために必ず要るものではない」というのは本当だろうか。

まず、「生きる」とはどういうことかという定義によって音楽が生に必要かどうかが変わってくるのではないかと思う。単に呼吸をしていることが生きることになるのなら、極端な話、鎖に繋がれて飼われていても良いわけであるが、そんなのは人間的じゃない、とすぐに否定されるだろう。そのため生存権のように「健康で文化的な最低限度の生活」を送ることが人として生きるということではないか、と考える。つまり、人として生きるということにはある程度文化的な生活であるということが必要であるわけだ。

「必要」という言葉が使われるのは、即物的なものに対してであることが多いように思う。つまり、物質的なことや金銭的なことが優先される。食べ物であったり、仕事であったり。即物的な見方をした時は芸術というものには価値がないということになる。これも本当かどうなのか怪しい。それを認めてしまうと、先ほど言った人として生きるということは、文化的な生活が必要であるという言い方が適切ではなかったということになる。

よく理系学部や法経済学部は「社会の役に立つ(つまりお金になる)」とされ、対して文学部や芸術学部は社会の役に立たない(お金にならない)と言われるが、これも即物的見方によるものであって、それがすべてではないのではないかと私は思うわけだ。音楽に限っていえば、ポピュラー音楽をやる学科に関しては商業音楽と通じているため、即物的に「役に立つ」ということができる。

では、その他の音楽を含む芸術をやることの意義とは何なのか。即物的ではない必要なものとは何なのか。それについて考えてみたい。

即物的でないものと即物的なものとの違いは「お金になるかならないか」が一つの指標であるというのがぼんやり見えてきたように思う。ではなぜ、お金にならない大事なものが存在するのか。それはひとつには芸術や教養の経験には形がない、形にしにくいという性質があるからではないかと考える。お金は、その金額を払えば誰でも平等に手に入れることができるというものに対してのみ有効である。だから物や誰でも経験できることに対しては値がつく。それは芸術作品でもそうで、本やCDには値段がついている。そのものの価値の上下はあるにせよ、形あるものには値がつけられるという意味では、芸術作品も他の物と何ら差がない。混乱を招く言い方をするが、そのような意味では芸術にも価値があり、「役に立つ」ということが間接的には言えてしまう。

しかし、私が考えたいのはそのような脈絡での話ではない。小説の本は400円台と安く、音楽のコンサートは1万、2万とかかるが、「価値あるものほど高い」などという話をしたいわけではない。(かといって需要と供給の話がしたいわけでもない。)400円の小説を読むことがその人にとってそのまま400円の価値にならないのは、芸術が即物的な価値に留まらないことを示しているのではないだろうか。さらに、書くことに至っては紙とペンがあればできてしまうが、その価値は材料費とイコールでは結べない。これが、即物的ではないものの価値にあたるわけだが、それを人らしく生きるために必要であるというにはまだまだ足りない。

芸術が何の役に立つのかという問いには簡単な答えとして、「お金にはならないけど、人を豊かにするものだから絶対に必要なんだ」という話を耳にタコができるほど聞いてきた。ここでやはり重要になってくるのは「人を豊かにするものがそんなに大事なのか。そもそも人を豊かにするとは一体何なのか」ということである。

人の進化論について論じるとまたややこしくなるので進退という概念は用いずに発展という概念でみていきたい。人を豊かにするということは、人の心を豊かにするという意で、それは何か不足していたものが満ち足りたり、多様化したりした時に用いられる言葉であると推測する。例えば花が咲いているのを眺めている。単純に「ピンクの花だ、綺麗だな」とまず思う。良く見ていくと花弁の数や、花粉があることや、茎のみずみずしさを見出すことができる。「綺麗だな」と思っていたものがより多様に見える。ここですでにこの人は認知できるものが増えて「心が豊か」になったといえる。人の情感を喚起したり、より鮮明にしたり、物事が人に与える影響というのは測り知れない。するとここで本が登場する。花がどのようにして生きているのかは植物の本を見ると分かる。自分では思いつかないような花の捉え方は小説によって見えてくることがある。よく見るだけでも人の心は豊かになるが、それとはまた違った方向から本によって心が刺激される。そのようなことが、(この場合本が)「人を豊かにする」ということなのだと考える。発展ということばを用いるとすれば、その意は「より◯◯になる」ということである。より捉え方が増えたり、多様になったり。そのようなことは、人が生を謳歌する上で必要である。というより、生きているとそうならざるを得ない、つまり、生きるということは発展するということであると言っても差し支えがないのだ。学問や芸術が生を肯定する活動とみなされるのは、学問や芸術が発展してきたという歴史があり、発展性を有しているということが明白であるからである。心が豊かになることが大事なことであるとされるのは、生きることが人にとって大事であるからということに他ならない。生きることがもし、人にとって大事なことではないのだとしたら、確かに学問や芸術も大事なものではないし、大事なことが何もないような感じがしてしまうだろう。しかし、死に重きを置く価値観を持っていたとしても、我々が今現在生きていることに何の価値も生まれないというのは本当だろうか。死に価値があり、生に価値がないといえるのは死んだ後の自分であり、生きているうちの自分ではないはずである。そうなる以上、消極的に見ても生きているうちは生きることが重要であるといえるのではないだろうか。発展とは、生のようにすでに進行している何かであるのかもしれない。生きていることの価値の有無を議論すると、もうその段階で発展性が生まれている、発展がそこにある、その意味でそれは生きていることの価値をすでに認めてしまっていることになる。生きている者が生きていることについて考えるのと同じく、すでに進行しているものなのだから、否定するのは困難に近いという状態になる。だが、私がしたいのはそんな消極的な見方ではない。ここに至るまでに必要な過程ではあったが、これを主軸だと思われては困る。ただ、即物的ではない必要なものが存在するということはこの段落でなんとなく掴んでもらえたのではないかと思う。発展性を有したものとお金になるかならないかという指標は交わるものではないのだ。

さて、人間と同じように人のつくったモノ(学問や芸術)に発展する性質があるのは認めるし、それが人にとって重要であることも分かってはきたが、「音楽は何かの役に立つのか」ということについて説明が十分にはできていないように思う。言い換えれば、音楽の性質がいかに人の心の発展に繋がるのかということについてまだまだ話せていない。というわけで、音楽にはどのような性質があるのかをここで考えてみる。

 

とここで一旦ストップです。続きはまた後日更新します。