万華鏡の世界

自分と自分と時々君

いつか世界に溶けていく

 いつか世界に溶けていくことを、私は肯定的にも否定的にも捉えたくないと直感的に思っていた。(今思えば、)なぜならそれが救いになろうと、不幸の元になろうと、人為的秩序の世界において存在するだけの人間の価値観に過ぎなかったからだ。ただ世界に溶けていくこと、それは閉じられるのでもなく、拓かれるのでもない。私の、いや人の通過点に過ぎなかった。

 また、いつか世界に溶けていくことを、わたくし個人が居るべきか居ないべきかという自我(生活圏の私)の問題に直結して考えるべきことでもなかった。当然あなたが居ても居なくてもいいということでもない。どうでもいいことなんて何一つないと思っているが、「どうでもよくない」と今主張したいわけでもない。分かり得ないことは分からないと諦めに似た感情を言いたいわけでもなかった。

 生活圏にいる私という存在は、私を肯定するし、他者をも肯定するが、それは暫定的にわたくし個人が決めたものだった。そういった人間的な取り決めの世界を超えた私たちは「在る」と「無い」を揺動し、蠢いているような存在だ。パラフレーズすれば、人はたとえ生きていても、絶えず世界に溶けかかったり、浮き立ったりを繰り返している。夢を見たり、意識が飛んでいたり、思考から離れていたりする時、私達は其処にいるのではなく、世界に溶けている。

 物質の不確かさよりも観念の存在に取り憑かれている自覚がある。概念は物自体に即していて心の働きと関係なく他者と共通するが、観念は対象物に対して認識されたものであり、個人的なものだ。本当は言い表し得ないものを言葉で表現できてしまうことに違和感を覚えずにはいられないが、それはそれとして、人と分かち合うことができない観念は、一見存在するかどうかすら怪しいのに、はっきりと私の中に存在していると感じる。例えば美は文脈によっては概念ともなれば観念ともなり得るが、観念としての美を感じとる時、私は言いようのないものの存在を強く感じている。ところがそれを言葉にすれば、忽ち観念的な性質は失われ、認識的概念へと変貌している。そのような存在に私はひどく取り憑かれ、頭の半分はもう奪われてしまった。


 世界に溶けていくと観念は消えてしまう……。私が喪失を考える時はいつもそのことを思う。廃墟には観念の顕在化しない蠢きが、そしてかつて存在したものの断片があった。その断片を徐ろに拾い上げて私がこれから何をなくすのか考えた時、それは私という存在ではなく、私の中にある人と分かち合えない何かだった。