万華鏡の世界

自分と自分と時々君

文章についての走り書き

起承転結などの展開に慣れすぎている話

 

普段読む多くの文章がロジカルなだけに、そうでない文章に触れた時の異物感がものすごい。小説に関しては「そういうものだ」という認識があるからまだ良いが、いかにもまとまってそうな記事を読んだときに、ロジカルでないと「アレ」となることがしばしばある。それは、女性の文章に多い気がするが、すべての女性の文章が読めないというわけではない。とりわけ苦手なのが、ツイッター等のネットで持て囃されている文章。キャッチコピーのようなコテコテとした文章が1つの記事の中でも多数あり、その度に軽い笑いを誘うようなものが多いように見受けられる。私は格言的な文章というものがそもそも苦手で、どこに「いいね」をしたら良いか分からない。結局何も言っていないのでは、という気が起こってしまう。人気のある文章を楽しめるようになりたいとはあまり思わないが、もっと広い世界を私は欲している、つまりさまざまな文章を楽しめる心を得たいわけで、そういった意味ではロジカルな文章だけに慣れ親しんでいる今の状態は危機的であると言わざるを得ない。

ふとここで矛盾に遭遇する。普段の私は結果より過程に重きを置いているのに、文章に結果を求めすぎてしまうのはどうにも滑稽ではないだろうか。いや、簡単にそう言い切ってしまうと、結果以外を大事にしているなと感じる時がいくつもあるのをすぐに想起できてしまうから、すべての文章に結果のみを求めているわけではないのだろうけれど、少なくとも求めてしまう文章の例を2つ知っている。1つは知人の哲学的な話と、もう1つが先ほどのSNSで持て囃される文章。どちらも共通するのは、自分にとって「真意が見えない」ということなのだと思う。日常からかけ離れているように見える知人の哲学的な話の文章を見た時に、この主義主張をすることによって筆者は一体どんな目的が達成されるのだろうかという疑問が湧く。そういうものではないのかもしれないけど、そのようなことが書いてないか期待をしてしまうのだ。だから、読んでも腑に落ちない感じになってしまう。一方SNSで持て囃される文章というものは、人を引き付ける要素を多く含んでいることに特徴があり、私が読む限りでは人の注意が引ければ目的が達成されている感じがする。つまり内容らしき内容がそこにはない。この2つの例を強引にまとめあげてしまうと、各方面から矢が飛んできそうだが、あえてまとめてみると、ディテールの重要性というものが浮かび上がってくるように思う。私でも納得して読めるような小説にもその側面があるし、そのようにロジカルでない文章というのはそのディテールが文章の世界のすべてなのではないかという気にさえなる。

ディテールの重要性は音楽にも通じる。感情云々の問題を意識する時に形式について考えが及ぶのは想像に易いが、その形式(細部を含む)こそが音楽の内容、つまり音楽の自己目的的な性質があることに関連して考えられそうではないか。ディテールが重要であることと、音楽の自己目的性は単純に一元化できるものではないにしろ、そこにある「細やかな表現」を内容として意識づけできるという点では非常に似ている。物語の展開や主題をその作品のすべてであると捉えるのは非常に危険であるし、音楽を感情的な側面ばかりを捉えて悦楽的に鑑賞するのもあまり良いとは言えない。内容とは、細部に渡ったそれそのものも含まれるのだから、そういう意味では結果に当たるものが何であるかということはさほど重要ではない場合もある。(当然、「結果」もその作品の内容であるから不要だとはいえないが)

ここまで書いてみて、私は文章を読むときに結論や発話の目的を求めすぎているあまりに細部を見落としがちなのかもしれないという気づきを得られたし、良く分からない苛立ちも抑えられたので非常に満足している。他人にとって価値ある話ではないかもしれないけれども、一応ブログに残しておこうと思う。