万華鏡の世界

自分と自分と時々君

『千住博の美術の授業 絵を描く悦び』を読んだ。

 

千住博の美術の授業 絵を描く悦び (光文社新書)

千住博の美術の授業 絵を描く悦び (光文社新書)

 

 新書という読みやすい類の本でこれだけの内容が書けるのはすごいなと純粋に驚いた。一生何かを続けていくということがどれほど難しいことなのかが分かる一冊になっている。そういう意味で、絵描きでなくとも何かをつくる人、つくろうとしている人には是非薦めたい。私は創作面ではやる気のない人種になるため、この本を読むのは正直しんどかった。何故なら、「一にも二にもまず描け(つくれ)」という話であることが嫌というほど分かるからである。この本で惜しいなと感じたのはそういった点で、つまり、何か好きなものが明確にある人でないと本の内容がまるで意味を成さないということだ。好きなものを見つけてさえいれば、この本は非常に実践的でありがたい内容になっている。

詳しい内容について触れたいところがある。カバーでも引用されている箇所だが、絵画とイラストの違いとは何なのかといったところである。イラストは記述的、つまり説明的な性質をもっているのに対し、絵画は「問いかけ」であるといったところが実に興味深い。そういえば、ある詩人も「詩は説明になってはいけない」と述べていたのを私はふっと思い出した。

結局芸術とは答えの返ってこない永遠に向かう問いかけのようなものです。 

この部分を見たときうーんと首を縦に振り唸った。音楽美学とはまさにその性質の関連として生まれたものであるだろうし、優れた作品には多くの批評文がつくなということが分かっているからである。芸術が何らかの「答え」であるとしたら、誰もが考えることを放棄するであろう。「問いかけ」であるということは、鑑賞者に能動性を生じさせるということである。それは鑑賞の意味を生むことにもなっていて、芸術が鑑賞ありきで成立するということにも繋がっている。本著で言うところの「説明になってはいけない」というのが写実的になってはならないと同じ意味なのかというところまでは分からなかったし、音楽が記述的になるということはなさそうな気がするため、理解は浅いものになっているが、この辺りのことは間違いなく重要なポイントであるなと確信している。

日本美術は疎か西洋美術でさえ良く知らないため、美術に関することを呟ける自信はないのだが、この本を通して分かった日本美術画の定義は、使う素材が岩絵具や墨といったものであり、かつ日本画的な思想のもと描かれているといったところであろうか。日本画的思想とは例えば、「余白」の使い方に現れるものである。

 現代の欧米では、塗り残しはたんなる塗り残し。つまり画面は合理的遠近法にのっとりながら「埋めて」ゆくもの、という考え方が大勢を占めています。描いているところにこそ価値があり、それは認識の結果であり、風景画とは駆逐し、未知から獲得していった知的征服物の象徴だったのです。

しかし、私の作品の場合、塗り残しが「空」であり、「画面中央の鏡のような水たまり」だったのです。つまりそこがすべての生命の誕生と宇宙の神秘を現す雨の存在の象徴としての雲、そしてすべての生まれ出た海なのです。つまり塗り残しこそ、画面の中で最も大切な部分だったわけです。

音楽の場合、ジャンルによるものの考え方というのはなかなか見えにくい。西洋音楽と日本音楽では相当な差があるが、ジャンルが新たに生まれ、二、三のジャンルが混合されていることもしばしばあるため、例えばポップスとロックの差というものは極めて小さいものになっている。美術も禁則(というのかは知らないが)を破ることが当たり前になった現代では、その意味はあまり見えてこないかもしれないが、この本に登場する絵の場合はそれがはっきりとしているため、思想の重要性にも繋がっているのが分かる。私が注視したいのは、ジャンルごとの定義(思想)をすることではなく、ものの見え方、考え方は作品に表れ出るといった部分である。そのような意味では、やはり作品の基盤にある観念といったものは必要不可欠である。具体的には、例えば音楽にも休符というものが存在する。日本画的な意味での余白とは異なるが、休符をどのような意味で扱うのかという問題は十分に考える余地のあることだと気付かされる。

本全体の印象としては、肯定できる部分が多く、素晴らしい著書であることは認めるが、実践的な部分に関してはあくまで一つの方法でしかないということには気をつけたいし、大前提として「自分にはこれだ、これしかないと言える好きなものがある」という人向けな本である。つまり、これから何か探していこうという人にとっては酷な内容であり、逆に好きなものがあって、毎日それに向かえている人は精神論的な箇所は読み飛ばしても問題なさそうである。

一つ腑に落ちなかった内容がある。「美しいものは国境を超える」といった箇所である。美には様々な形態があり、確かに国境や時代を超える美しいものは偽りなく美しい。しかし、美しいものすべてが国境や時代を超えるわけではないし、その差から前者が優れていて、後者は紛い物であると決めつけるのはどうなんだろうと今の私は考えている。認知のしやすさが美しいという感覚を呼び起こしている可能性がある。しかし、その感覚でしか鑑賞ができないというのは芸術美の追求において足枷になっているような気がしてならない。これは非常に非情動的な考え方であるし、実に極端なものであるに違いないことは承知の上だが、もっと美というものは広く捉えられるべきではないか、その可能性を探っていく必要があるのではと思うのである。