万華鏡の世界

自分と自分と時々君

芸術と認知のはなし

 少し前に出ていたとある論文のことを思い出したので噛み砕いて話す。おそらくその人は認知(直訳では神経美学と出た)に関する研究をしている人だったと思う。「思う」というのは、フリーではアブストラクトを確認することしかできなかったのと、英文だったので重要な箇所しか私が抜き出していないからである。以下意訳。

 

 「芸術の普遍性は科学的に見れば、我々の神経系システムが人種や時代関係なく共通することに起因するものであると考えられるが、一方で、芸術の多様性は(芸術作品が多様であるという意味合いも含むが、一つの作品から多くの解釈がなされるということについての多様性もあるかなと読み取った)これらの(おそらく知覚を含む認知機能に関する)神経系が柔軟で、一時的な文脈や目的に調和し、生涯の経験を通して変化し続けることによって生じるものであると考えられる。」

 

 知覚のメカニズムを学んだことがある人にはピンと来る話だが、我々が物を見たり、音を聞いたりするときのメカニズム自体は人間であるからおそらく共通するが、例えば色の見え方というものは人によって差があるし、音高の知覚ではなく、音楽の認知まで広げてみると、それは人間の生得的な感覚と、後天的に経験の中で獲得してきた感覚とが融合してある認知のされ方になっているということが確認されている。単に音高を知覚するよりも、音楽を認知する場合はより高度なことをしており、鑑賞するよりも作曲することはより高度に認知活動を行っているとされていることからも分かるように、芸術鑑賞や創作は認知心理学的には非常に高度な認知活動であるといえるのだ。私には、我々の神経系が「不完全」であるからではなく(そもそも神経系の完全とは一体何を指すのか私には分からない)、非常に柔軟であり、「生涯にわたって変化し続けるものである」からということが非常に重要であるように思える。

 

 録音技術をはじめとする音響関係の技術が発達し、我々が通常指し示す音楽は、多くの場合繰り返し聴ける劣化しない再生可能音楽を指すようになった。その音楽を聴くとき、感じ方が人によって違うのはもちろんだが、時と場合によっても変わるということに注目した人は少なくないだろう。その理由の一つとして今回の認知機能の話を挙げることができる。音楽に特化して話したが、それは絵画を鑑賞する際もそうだろう。我々が芸術を飽きることなく鑑賞できるのは、神経系が柔軟に変化し続けているからだろう。私たちの感性は変わらない部分もあるが、経験によって変わり続ける部分も大いにある。

 芸術は心を豊かにするだけでなく、変わり続ける豊かな心があるから鑑賞できるのだ。芸術作品は、我々の心の反映を微細に示す鏡でもある。

 

参考

Neuroaesthetics and art's diversity and universality
Marcos Nadal , Anjan Chatterjee

柴崎友香『ビリジアン』を読んだ。

 

ビリジアン (河出文庫)

ビリジアン (河出文庫)

 

  ツイッターで感想を書いたので。それを貼りつけ。簡単に。

 

 記憶をランダムに綴った短篇連作だった。色彩感が豊かで情景が事細かに語られているのが印象的だった。記憶は色による印象が強いからそこに関して大変共感した。

 自己の形成を時系列順に、ある一つの物語として我々は持っていることが多いけれど、これはそういった語り口ではないところが面白い。バラバラな記憶、エピソードによっても自分の成り立ちが見えてくるのでは、という推測に挑戦したような小説に思えた。

 以前、人と話していて自分が病気によって何が損なわれたのか考えた時、「自己の物語」の遂行不全に陥っていることを自覚した。記憶によって自分や自分らしさを再編成するのが困難になっていると気づいたのだ。でも、『ビリジアン』を読むと、そういった物語は必ずしも必要ではないことに気づかされる。たとえ「自己の物語」が何らかの理由で途中で断絶されていても、自分を記憶によって再編成することが可能なのでは、とこの本を読みながら思った。どのようにしてそうするのかはこの小説の書き方に則れば良いのではないだろうか。断片的でもエピソードを抽出することがおそらく要となる。

 地続きな記憶の上で自分が成り立っていると考えるのが普通のように私には最初思えたのだけれど、記憶は順序良く行儀良く並んでいるものではない。何かトリガーがあり、浮かんでくるものだと思う。そのエピソードを思い出す中で自分はこうだったんだと再認識すること、それが自分らしさに繋がっている。

 物語が一本の線で繋がっていることに慣れているので、読み物として素直に楽しめたかというとそうではないのだけれど、良い読書経験になったなあという感想。

「モナリザ」について

 昔書いた文章。元々モデルの写真が存在していたのと(肖像権等の関係で記載せず)、絵とともに見ることを前提としているので少し分かりにくいかもしれません。

 

Mona Lisa」の考察

 

1.微笑みとはなにか

 「モナリザ」は本当に微笑んでいるのかという話をよく見かける。確かに、人物画であるからその人物に目が向けられるのは当然のことだが、「モナリザ」は特に様々な書籍やインターネットにおいて表情に関する記述が多い。「モナリザ」を鑑賞するに当たって「微笑みとは何か」という問題を意識するようになった。それは、「モナリザ」の絵が自身の抱く「微笑」のイメージとはやや異なるように感じたからである。今までも「モナリザ」には得体の知れない違和感があった。何が通常と異なるのかという話は読んだが、その時はぴんと来なかった。何故かというと、微笑という概念が自分の中で曖昧だったからである。

 「モナリザ」の絵に実際の生身の人間が見せる微笑と異なるものがあるということは、数分絵を見るだけでも感じることであるが、人が笑ったときでも違和感を覚えることはある。「モナリザ」の見せるそれが、人が笑ったときに覚える違和感と通じるのかそうでないのか、もし違和感があるとすればそれは微笑みではないのか。そのことについて少し考えたい。

 微笑と聞いて思い浮かぶものの1つが写真に写るときの表情である。典型的なのがファッション雑誌の写真である。モデルはポーズをとり品良く微笑む。あるいは飲食店で注文を受けた際の店員の表情である。それらは「笑っている」のだが、心の底からは笑っていないと感じる。具体的にどうしてそう感じられるのかをまずみていく。

 「彼らは仕事をしているのだから、本気で笑っているはずがない」という意識が背景にあることは否めない。写真に写る時もカメラに向かって笑いかけるということは、不意に漏れる笑みとはやはり異質なのである。その差異はどのようにして表出しているのか。実際に微笑んでいるとされる写真をいくつか選んで見てみた。

 あるファッション雑誌の写真では、二人ともやや首を傾けて微笑んでいるように見えた。頬肉がぷっくりと膨らみ、口角が上がっていることが分かる。目はぱっちりと大きく、見開いている。

 丁度同じモデルが写っており、「モナリザ」と似た角度からの写真を見つけた。ただし、体を捻っていないことと、光源の位置の点で異なる。

 写真加工によって影がやや薄くはなっているが、こちらでもやはり頬肉の膨らみと口角が上がっていることが確認できる。やはり目はしっかりと見開かれている。そして、眉と目の部分のみに注目してみると、「微笑み」は消えた。これが作り笑いだと感じる要素であると感じた。さらにやや傾いているこの傾きを消し去る。眉と目の部分だけを見ると完全に真顔に見えるようになった。気になったので、このモデルが実際に笑っているであろうと感じられる動画も確認した。それを見て、彼女は紛れもなく笑っていると感じた。歯を見せ、頬肉を思い切り隆起させている。そして先ほどまでの写真と大きく異なる点は目が細長くなっていることであった。これらの差が作り笑いが通常の笑みと比較した際に覚える違和感の正体だった。

 以上をふまえて笑っていると感じる要素を整理してみると、以下のものがあげられると考えられる。

 

・必要不可欠なもの

①頬肉の動き

②口角

 

・あった方が自然であるもの

③顔(首)の傾き

④目の動き

 

 ここまでで、実際の人間が見せる「微笑み」でありながら違和感を覚えるのが「営業スマイル」に代表されるものであることを明確にした。ここで分かるのは、微笑というのは本人が心から笑っているかどうかということを抜きに、最低①②であげたように口角が上がっており、頬肉が膨らんでいれば微笑なのである。「微笑み、微笑(びしょう)」という言葉にその人心からの「笑み」という要素は含まれていないということに留意したい。そして、この「営業スマイル」による違和感が「モナリザ」を見たときの違和感と同質であるかを次にみていく。

 

2.「モナリザ」の微笑み

  先ほどの写真の微笑と「モナリザ」の微笑を比較する。微笑みに必須なのは頬と口角の動きであった。その2点に絞って見ていく。まず「モナリザ」の口元だけに注目する。それから先ほどのモデルの写真も同様に口元のみを切り抜いてみた。

 口元のみでいえばどちらも口の端が上がっているように見える。程度でいえば、印象としては口角はモデルの写真がよりしっかりと上がっているように感じた。「モナリザ」の場合は口角の上がり具合はごくごくわずかなのである。そして、鼻の真ん中つまり顔の中心で半分に分けたとき、彼女の右半分の口元だけ見ると笑っていない。左側は陰影が笑った口元のようになっている。

 次に頬の動きに注目する。よく見ると「モナリザ」は左頬も右頬も目立った肉の隆起がないのに対して、モデルの頬肉はやや盛り上がっていることが確認できた。目と口という要素をなくしても、モデルの写真では頬肉が盛り上がっているため笑っていそうだということが分かるが、「モナリザ」は目と口をなくすと無表情になってしまう。

 顔の傾きは「モナリザ」は傾いておらず、モデルはやや傾いている。目に関してはどうだろうか。目を細めているかという点ではどちらもそうではないように見える。しかし、「モナリザ」のこの目が笑っているときの目に見えることもある。「モナリザ」では右目と左目で印象が異なるように思われる。複数の文献で確認してもそのような記述が見られる。左目に着目すると、左目は彼女から見て左側(私たちから見ると右側)を見つめている。そしてその目は鋭く開かれている。一方右目はこちら、正面を見つめており、目尻がやや下がって見える(厳密には目自体が傾いているわけではない)ため微笑んでいるようにも見える。ただ断定できるほど明瞭ではない。陰影がなければ全く分からない程度のわずかなものである。口元に関しても同じであった。陰影を頭の中で消し去って形として捉えた場合、パーツごとに見ていくとそれが微笑んでいるようには見えないのである。

 さらによく見るためにモデルの写真と比較するとその違いは明確である。右目の黒目の位置は「モナリザ」もモデルの目もほぼ同じ位置であるが、左目は明らかに違う。そして目のフレームに注目すると、「モナリザ」の左目の上瞼と下瞼のバランスはモデルの目とほぼ同じようなアーモンド形のアーチを描いているが、右目はモデルの目のようにアーモンド形ではなくひまわりの種を横にしたときのようになるのが自然のようである。しかし、「モナリザ」の右目は左目と同じくアーモンド形なのである。角度が違うのではないかという指摘があるかもしれないが、鼻を比較した際にその角度がほぼ同じであることが分かるため角度が大きく異なっているからという理由づけはできない。

 つまりここで分かるのは、「営業スマイル」の時に覚える違和感と「モナリザ」の微笑みを見たときの違和感は明らかに質を異にしているということである。

 布施英利「『モナリザ』の微笑み 顔を美術解剖する」では「『モナリザ』は合成画だった」と書かれている(15頁2行目引用)。そして美術解剖学の専門である著者は「モナリザ」は微笑んでいなかったと結論づけている。正確にはパーツごとで「解剖」して見ると微笑んでいないが、全体を見た際にはやはり微笑んでいるように見えると述べている。

 また、背景に関しても地平線が繋がっていないことや、左と右の背景ではその印象が大きく異なるという指摘があった。そしてその背景はレオナルド・ダ・ヴィンチが幼い頃過ごした土地であり、その土地の古代の様子を想像して描かれたのではないかと考えられている。確かに背景のみに目を向ければ、古めかしいまるで恐竜でも現れるのではないかと思うほどの印象を受けるような風景である。そのことからも彼女のみでなく、背景も「合成」であることが分かる。

 布施はさらにその手法はパブロ・ピカソに受け継がれたと述べている。あらゆる角度から見たときの対象物を一画面に収めるキュビスムがそれに当たる。ピカソの絵と「モナリザ」の違いは、「モナリザ」はぱっと見ただけではそれが合成であることが分からない点にある。現実にいるのではないかと思わせるような一見写実的な具象画のようであるが、実際のところは現実的にはありえないものである。現実に限りなく近く、具象的な絵であるがよくよく見るとそれは現実を超えている。この現実と超現実が隣り合わせになった状態が「モナリザ」なのである。そのことを考えると、超現実主義つまりシュルレアリスムの絵をも彷彿とさせる。ルネ・マグリットに代表される事物のありえない組み合わせや夢の中の世界といった具象画である。ピカソに関してはキュビスムの後にシュルレアリスム的な絵も描いている。キュビスムシュルレアリスムは非常に隣接しているのかもしれない。そして「モナリザ」はそれらの世界観をも内包してしまっているということが今になっていえる。

 「モナリザ」の芸術的価値の1つとしてはその現実性と超現実性が隣接していることで、一瞬でその2つの世界を行き来できてしまうことにあると考える。死体の解剖を行っていたダヴィンチは、参考文献によれば「モナリザ」を描いた頃には骨格や表情筋をしっかりと捉えることができるようになっていたとされている。しかし、「モナリザ」の頬や口元などのパーツは違和感が多々認められるものであり、それはダヴィンチが意図的にそうしたのだとしか言いようがない。写実的に描こうと思えばより「リアル」に描けたが、あえてそうはしなかった。当然単なるデッサンではないのだ。

 ルネサンス期といえば宗教画が多く、自然との調和を図った絵が多い。バロック期は光と影のドラマティックな演出や、写実的な絵が流行した。しかし、ダヴィンチがとは言わないが「モナリザ」はそういった時代やジャンルで分けられないのではないかとここに来て考える。今でこそ言えることばかりだが、そのシュルレアリスム的な現実と超現実が隣接していて、一瞬でその2つの世界を行ったり来たりできてしまうというのは、まるで宮沢賢治の『風の又三郎』のようであり、骨格や表情筋を知り尽くしていたであろう彼があえて違和感を生み出し、そしてそこに芸術性を生み出したというのは、まるでドビュッシーが和声を熟知しながらも、昔の手法である旋法を使用した色彩的音楽を生み出したことのようである。

 

3.ダヴィンチの絵画を辿る

 レオナルド・ダ・ヴィンチが生涯に描いた絵画は10数点と少ない。そのため、どのような作品を残したか簡単に見ていきたい。着眼点はその人物の表情である。

 

制作年順のダヴィンチの主な絵画作品

(情報の引用元:ダヴィンチの工房「画家としてのダヴィンチ」)

 

①「受胎告知」1470~1475年

 天使は幾分うつむき加減。マリアは毅然とした態度で告知を受けとめている。この作品は、ダヴィンチがヴェロッキオの工房にいた時に他の弟子たちとともに制作したものである。構図や風景などもほとんどすべてがダヴィンチの手によると言われている。

 

 拡大してよく見てもこの女性は無表情である。この時期の宗教画は厳粛で、心の揺れが描写されることはなく、これだけ動きのあるものでさえ当時にとっては新鮮だったようである。

 

②「キリストの洗礼」1471~1476年

 この絵は師匠ヴェロッキオの作品であるが、ダヴィンチも弟子の一人として制作に参加した。ダヴィンチが描いたのは、背景と一番左の天使である。自分の作品よりあまりにも優れているこの天使を見たヴェロッキオは、感動し、二度と絵筆を取ることはなかったという。

 こちらの絵も登場しているすべての人物は無表情である。首を傾けているせいか遠目だと微笑んでいるようにも見えるが、よく見ればどこにも笑みは見当たらない。

 

③「ジネヴラ・ベンチの肖像」1475年

 ジネーブラ・ベンチは、代々メディチ銀行の総支配人をつとめたベンチ家の長女。「比類のない慎み」と微笑みを称賛された女性であるが、この絵では微笑んではいない。

  ダヴィンチの絵を見てきて、この絵は特に「違和感」を覚える。「モナリザ」のような複雑な違和感ではなく、不自然な印象が強い。布施はこの時期(この絵が描かれた後10年を含む)の絵は骨格を執拗にとらえることにこだわっていたダヴィンチの様子がうかがえると述べている。そして骨格の上に乗っている表情筋にはあまりこだわりが見られないため、肌の色艶や美しい髪を纏っているにも関わらず静かな印象を受ける。全体の雰囲気を通しては死んだようにも見える。その違和感の正体はやはり表情に隠されているといっても過言ではない。

④「東方三博士の礼拝」1481~1482年(未完)

 背景に馬の群、中景に羊飼いたち、中央には聖母マリアがキリストを抱き、三博士は跪いて生誕を喜ぶ。

 「喜ぶ」とあり、遠くから見るとこの女性は紛れもなく微笑んでいる。しかし、書籍にある拡大写真を見ると微笑んではいない。無表情そのものであり、頬の肉の隆起は見られない。しかし顔が傾いていることと、目を伏せている様子から全体を通して見ると微笑んでいるように見える。布施も「しいて微笑に思える要因を探せば、それは首を傾けて、顔を下に向けていることに気づく。」(30頁13行目)と述べている。

 

⑤「聖ヒエロニムス」1482年(未完)

 聖ヒエロニムスは、4世紀、パレスチナの砂漠で苦行を続けながら、聖書をラテン語に訳した聖人である。トゲを抜いてやったライオンを供につれている。

 こちらも無表情である。やや苦痛に顔を歪めているようにも見える。

 

⑥「白貂を抱く婦人」1483~1490年

 ダヴィンチの庇護者であったミラノの専制君主、ルードヴィコ・イル・モッロの愛人、チェチリア・ガッレラーニの肖像画である。

 ダヴィンチの絵をいろいろと見てきた中で、最も自然だと感じる。頬肉の隆起がわずかに感じられ、控えめであるが微笑んでいるように見える。厳密には微笑みというより前向きな印象を受ける。溌剌とした生きている人間を思わせる。体を捻っていることから「モナリザ」の彼女のポーズを想起させる。宗教画ではないために微笑みという心の動きを描写したのだろうか。

 

⑦「最後の晩餐」1495~1498年

 12人の弟子と共に食卓についたキリストが、「汝らの一人、我を売らん。」と言った瞬間が描かれている。左から、バルトロマイ、少ヤコブ、アンデレ。4番目が裏切りを見抜かれたユダ。その奥、ペテロは隣のヨハネに、裏切り者は誰なのか主イエスに聞いてくれと頼んでいる。イエスの右、トマソは、裏切り者は一人ですか?と指を立てている。その右が大ヤコブ、ピリポ、マタイ、ダダイ、シモン。ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロの注文で、スフォルツァ家の菩提所サンタマリア・デレ・グラツィエ教会の食堂の壁に描かれたこの絵は、ダヴィンチの作品の中でも、当時の人々に最も賞賛されたという。

 様々な動きが見られるが、表情はどれも乏しい。無表情であるがゆえにその動きによって人物の心が見えてきそうである。

⑧「モナリザ」1502~1506年

⑨「岩窟の聖母」1503~1506年と1483~1486年

 「岩窟の聖母」の絵は二つある。左がロンドンナショナルギャラリーのもので、右がルーブル美術館のものである。依頼した教会は、聖母と幼児イエスと二人の天使、二人の預言者の絵を要求していた。しかし、完成した絵(右のもの)は約束と違っていて、また、制作が遅れたこともあり、教会が支払いを渋った。

 右側にいる人物は微笑んでいる。右の絵を見るとそれは明確である。自然な優しい微笑である。

⑩「聖アンナと聖母子」

 幼児イエスと母マリアと祖母アンナがピラミッド形を形成し、その視線は互いに結び付けられている。レオナルドの最後の風景描写であり、岩盤などに地質学の研究の成果が見られる。

 この作品もまた人物は優しく微笑んでいる。ごつごつとした山の並ぶ風景の険しさと大らかな微笑みによる温かさのコントラストを見出すことができる。「ジネヴラ・ベンチの肖像」のような質の違和感はなく、その微笑みは自然である。

⑪「洗礼者聖ヨハネ」1513~1516年

 ダヴィンチの最後の作品と言われる。ダヴィンチは晩年、フランソワ一世に招かれてフランスへ赴いたが、そのときこの絵と、「モナリザ」、「聖アンナと聖母子」の三枚を持っていき、最後まで手放さなかった。

 歯を見せてこそいないものの、微笑みというより満面の笑みというような言葉が浮かぶ。色彩は統一されている。背景の闇と人物に当たった皮膚の光のコントラストが美しい。不自然なまでに口角が上がっており、まるで円の一部であるかのようである。目は「モナリザ」の時と同様、黒目の位置が右目と左目で異なり、顔の右半分だけを見たときはこちらを見ているように見えるが、左半分だけを見ると彼から向かって左側(私たちから見て右側)を見ているように見える。上部を指差していることと、その口角の上がった口元からエネルギーを感じることができる。

 ここまで見てきて分かることは無表情の人物が多かった彼の作品は、微笑みや笑顔の人物が後半になって多く登場するようになったということである。きっと「モナリザ」以外の作品も良くみていくとさまざまな仕掛けが施されていることであろう。セザンヌの人物画は、無表情のものが多かった。それは表情といった変化するものを排除することで何らかの効果を狙ったものと思われる。例えば満面の笑みを描くということは、その人物の魅力や絵の魅力を引き出すことになるかもしれない。しかし、それは笑顔でしかない。もし表情を取り去った無表情の絵であるなら、鑑賞者の心理によってはさまざまに捉えることが可能であるかもしれない。

4.まとめ

 ダヴィンチは人物の表情を描くということと、無表情を描くということその両者をも選択しなかったように感じる。あるいは両者とも選択したのである。というのは、最終的に「微笑み」を描くことが多くなった彼だがそれは「モナリザ」に代表されるようにパーツごとで見ると微笑んでいなかったり、「東方三博士の礼拝」首を傾けて微笑んでいるように見えるが良く見れば口角は全く上がっていなかったりというようなことがあったからそう考えられるのである。微笑みを描いたということは、明らかな笑顔や泣き顔といった感情が表出している状態を描こうとしたわけではなく、それらを完全に排除した無表情でも当然なく、より鑑賞者に寄り添うことのできるものとして微笑みを選んだ。現実的でありながら、超現実的な人物を絵に収めた。微笑みという一種の感情の表出を描きながらも、絵が動いているのではないかと錯覚させるような工夫を凝らし、解釈の幅が狭まらないものにした。そういったことが大きくは「モナリザ」の魅力であると私は考える。見れば見るほど発見がある絵というのはそれだけでも良い。当初あった違和感さえ「モナリザ」の魅力であった。

 

引用・参考文献

一條貞雄 2001年~2010年『「モナ・リザ」論考』仙台大学紀要33(1)

James Hall 1988年『西洋美術解読事典』河出書房新社、東京

布施英利 2009年『「モナリザ」の微笑み 顔を美学解剖する』PHP研究所、東京

ダヴィンチの工房 http://www.ops.dti.ne.jp/~manva/

人生を楽しくする工夫

 以前アスクで来た質問の回答です。まとまっているので載せておきます。

 

 楽しく生きていくのに絶対必要なことって実はないんですよね。なぜなら楽しい時って、何もなくても楽しいですから。そういう理屈っぽいことじゃなくて!と言いたくなると思うので、私が考えて実行していることを例にして話を続けたいと思います。

 楽しく生きていくのに必要なこととして私が最も重視しているのは、何もしてない状態でも楽しくなれる健やかな精神です。ですから、まず、健やかな肉体づくりは不可欠だと思います。そのために何が必要かご自身で考えてみましょう。例えば軽い運動として散歩やジョギングを生活に取り入れる。食事もなるべく多くの食材を使うように心がける。規則正しい生活というのも健康に必要ですから、ある程度守ると良いでしょう。

 この時点で勘の良い人はお気づきでしょうけど、生活を彩るものとして活動やモノのバリエーションというものが1つの鍵になってくるのではないでしょうか。人生、時間とはすなわち生活です。「当たり前だ」と思うかもしれませんが、豊かな生活が一体何なのかを考えた時、「生活パターンを無理に固定化しない」という考え方を取り入れることが豊かな生活のひとつの形であると私は思います。もちろんそうでない豊かさも存在すると思いますが、長くなるので今回は言及しないことにします。でも、時間割のようにやるべきことややりたいことを曜日ごとに固定すると、実は精神衛生に良くないのです。健やかな精神を今回は目標にしてますから、時間割のような効率的なやり方というのは不合理であると考えます。健やかな肉体づくりのためにやることは、必要最低限にとどめて、自分の負担にならないよう上手く工夫しましょう。毎日しても良いし、ジョギングなら週2,3回でも十分だと思います。食事は1週間で見たときにさまざまな食材がとれているように調整する程度で大丈夫です。

 あとは自分のやりたいことは何なのか日々考えて実行します。今私が一番やりたいことは何か、その見極めを行います。これは実は難しいことで、やらなければならないことをやりたいことにできるだけ移行したり、自分の人生において何が重要なのか考えたりすることで徐々に形になっていきます。常に意識することで、平日の帰宅後や休日の朝起きてすぐに「私が今やりたいことはこれだ」と決められるようになります。何も、絶対に何かを進めなければならないというわけではありません。「私が今一番やりたいことはだらだらしたいことだ」と思ったならそうすれば良いのです。最低限「本当はこれがしたかったのに、違うことをしてしまった」というような後悔をしないように過ごせさえすれば良いのです。やりたいことをやっていれば自然と楽しくなってきますが、私が注意しているのは特定の行為をし続けるということによって、意識まで偏るということがないようにすること。例えば毎日音楽をしている時期があっても、自分の中でその行為に対して飽きるということがないように工夫するのです。「音楽をする」といっても様々な作業がありますから、そういう意味でバリエーションを絶やさないようにしています。

 そして、さまざまなものに興味や関心を向けること。これを意識するのは非常に難しいですが、まあそう気負いせず、気楽にいきましょう。例えば好きな人が文学に興味があるなら、その人の好きな本を試しに読んでみるのです。読めなかったら最後まで読む必要はないです。その人から自分が読めそうなものを紹介してもらうのも良いですね。とにかく、まず周りにいる他者を肯定するのです。そして、人の好きなものになんとなく興味を示してとりあえず調べてみる、やってみる。このフットワークの軽さが大事です。例えばTwitterをしていると様々な情報が流れてきますね。誰かが音楽を貼り付けたり、画像を貼り付けたりしていますね。その音楽を実際に聴いてみる。そんなちょっとしたことで関心は広がっていきます。やりたくない時は無理にする必要ありません。そういう時はきっと疲れていたり、余裕がなかったりするのです。その場合はしっかり眠りましょう。休養も健やかな精神を築くのに必要なことです。

 最後に、これは一見あまり関係がないように思われますが、他者を肯定するのと同様に自分を肯定するということに意識を向けてみてください。自分は居ても良いんだという絶対の自信を持てるようになれば、何もしてなくても焦ることなく、その場を楽しむことができるようになります。これが実は一番難しいですが、できるようになれば人生がつまらなく感じるということはなくなります。自分という存在を肯定するのに必要なことはないです。ただ、紆余曲折を経なければそういった自己肯定感というのは持ちにくいかもしれないなと周りを見ていて思います。「根拠のない自信を持とう」という話を私は側にいる人と良くしますが、どうやってそういう自信が持てるようになったのかは実は私には分かっていません。ただ、ある時ふと、「自分は生きていても良いんだ!」と思えるようになったのは確かです。宗教を信仰することによって、あるいは哲学することによって、あるいは夢に生きることによって、それと近いことを為すことはできるかもしれません。この辺りは模索し、考えていくほかありません。

 以上が私の実行している人生を楽しくする工夫です。参考になれば幸いです。

サンドイッチを作った(メモ)

「昨日のサンドイッチ美味しかったなあ、バジルが効いてて」と寝ぼけながら、食べてもいないサンドイッチの話をLINEでしたぐらいサンドイッチを作りたい欲がすごかったので、材料を揃えて作ってみた。

サンドイッチを作りたくなったのには二つあって、名探偵コナンの安室透が美味しそうなサンドイッチのレシピを披露している回を観たからである。そして、友人から「粒マスタードを使っても美味しい」という話を聞いたので早速試してみたくなった。食に関してはすぐに影響される。それが私。

というわけでメモのために今日のサンドイッチのレシピをまとめておこうと思う。

 

サンドイッチの作り方(マヨをパンに塗るバージョン)※いつもはバター

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材料(写真は二人分用意)

8枚切り食パン(ふかふかのやつ)※蒸す場合は時間が経って水分が抜けたものを使う

ハム(脂身の少ないもの)

レタス

スライスチーズ

トマト(今回は家になかったので使わなかったが、できるだけ入れたい)

バジル

パセリ

マヨネーズ

マスタード

味噌

ブラックペッパー

オリーブオイル

 

量はそれぞれ適宜適量で。(雑)

 

作り方

卵は沸騰後8分くらい茹でて、水で冷やしたら殻を剥き、黄身を器に入れて、白身は細かく刻む。パセリも刻んで入れ(今回乾燥気味であまり刻めなかった)、塩とブラックペッパーで軽く味をつけた後にマヨネーズを加えて和える。

レタスは氷水かぬるま湯につけてパリっとさせる。てきとうな大きさにちぎって、キッチンペーパーで水分を丁寧に拭き取る。

トマトは湯剥きして薄く輪切りにする。持ち運ぶ場合は種も取る。

ハムはオリーブオイルを薄く塗っておく。

パンに塗る用のマヨネーズは器に出して、少量の味噌と和えておく。味噌は隠し味程度で良い。

水分の抜けたパンの場合は蒸し器で蒸す。

てきとうに合わせて作る。(今回はレタスチーズハムバジルに味噌マヨ、卵サンド、レタスチーズハムに粒マスタードの3種)

ラップに包んで皿等でサンドし、半分にカットして盛り付ける。

完成。

 

作った感想

味噌マヨ美味しい。でもやっぱりバターが恋しい。

卵サンドはケチらず、卵2個くらい使いたかった。(今回は1個)

やっぱりバジルにはトマトがほしい。

マスタードはそれ単体で使用すると酸味がきついのでバター等で混ぜたものを使った方がマイルドになって良いかも。

今回は作らなかったけど、鯖缶+玉ねぎスライス+ブラックペッパー多めのサンドイッチもなかなか美味しかった。

川上弘美『センセイの鞄』を読んだ

 

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

 

 

小説全般を読んでまず気にかかるのは、時間の流れ方というものがひとつあるように思う。解説と同じようなことを話すことになるので、今回はそこにフォーカスを当てることはしないが、保坂和志を読んだ時妙に感じていたのも時間の流れ方であった。今回の川上弘美の文章もおおまかには順序良く流れてはいるものの、細かいところで前後したり、入り組んでいたりしており、フックのようなものが至るところに仕掛けられている。そんな印象である。それは時間の流れ方だけでなく、恋愛の話という観点からも同様のことがいえる。若い男女の物語でもなければ、関係性ががらりと変わるようなドラマもない。そういった意味ではよくある恋愛小説とは異なっているし、一癖も二癖もある出来になっている。

恋愛の話と言い切って良いのかも分からないような部分もあるが、仮に恋愛小説だとすると、やはりどこかで性的なものを感じざるを得ないのだが、終盤の終盤になるまで二人の距離感があまり変わらないところから、ひどくテンポの遅いセックスでも見ているような感覚になった。セックスといっても生々しさはさほどなく、綺麗な形となってそれが現れているような感じである。序盤を読んでいる時、あまりのテンポの緩さに半ば眠くて仕方なかったのだけれども、それはつまらないからという意味ではなく、幸福な時間が流れていたからリラックスしてそうなったのだと思う。

「切ない」という感覚は誰にでも起こりうるのかもしれない。あらすじにも書かれてあったし、レビューもいくらか拝見して、そういった語が多く寄せられていた。しかし、私が普段思っている切なさと、『センセイの鞄』に登場する切なさは少し色が違うように思えた。なぜなら、この二人は始めから終わりまで共にいるのである。関係が引き裂かれるわけではない(最後にはなくなってしまうけれど)。ツキコさん目線で書かれているから、ツキコさんがセンセイを追いかけているように見えることがあるのだけれど、センセイもツキコさんに惹かれているのが断片的ながら読み取れる。両想いというものは、片想いし合っている状態なのだ。それは思いが一方的であるという切なさを孕んでいても実に幸せなことである。ゆえにここに登場する切なさには明るい光が多く差し込んでいる。幸福な切なさである。

心の動きを微細に描こうとするとこういった感じになるのだろうか。風景や、動作の描写はあまり多くない。短編小説の集まりを読んでいるような感覚にもややなったのだけれど、ひとつひとつがきちんと繋がっていて、微妙に変わっていくツキコさんの心や変化していくセンセイの動きが胸を高鳴らせてくれる。そしてやはりちゃんと長編の小説になっているところになぜか私は甚く惹かれたのである。

この本は人からいただいたものなのだけれど、よく選んでくれたなあと感心した。なぜなら、私は恋愛小説に苦手意識を抱くことが少なくないからである。読めるものより、読めないものの方が多いのだ。でも、私は一部の恋愛小説や映画をひどく好んでいる。本をくれた主がそれを分かってくれた気がしたのだ。ただの偶然なのかもしれないけれど、そんなふうに思える。きちんと読めるものを贈ってくれたし、この本について興味深い話もしてくれた。ゆえに、私にとって特別な読書体験となった。『センセイの鞄』は、これからも大事にしていきたい本である。

私と私

苦しみの根源を探っていたら、自分のある思いに気がついた。私は調子によって考え方を180度くらい変えることがしょっちゅうある。他人がどうかやそれが普通なのかどうかはさておき、私は躁のときの自分と鬱のときの自分といった、まるで違うその二者を二者とも愛したいという思いがあることに気づいた。そして、すべての自分とすべての時間をなるべく均一に慈しみたいのだと分かった。苦しみが生まれるのは、愛したいのに愛せない時があったり、不均一だったりするからだ。

例えば仕事が辛いとき、仕事そのものに対して嫌悪するということは私の場合実はあまりなくて、仕事を楽しんでいない自分が嫌で辛くなるということがあり、これが苦痛の正体ではないかと思った。仕事を嫌なものだと心で決めてしまうことは可能だし、そうしている人は少なからずいるだろう。でも、私には「諦めたくない」という思いがある。だから、楽しめない時があると、仕事に対してではなく、自分に対して苦痛を感じてしまう。

躁のときの自分と鬱のときの自分は、全く異なる考え方をする二者だが、理性では躁のときの自分を推奨している節があり、鬱モードの思考になると、肯定しないという態度を自分自身に対してとることになる。これは、認知行動療法的には正しいことで、極端な思考を避けたり、歪んだ認知を歪んでいると捉えたりすることは全くもって悪いことではないが、問題は偏った思考をする自分が理性的な自分によって間接的に拒絶されてしまうところにある。つまり鬱の自分は自分から愛されていないと感じる。となると、鬱の自分が登場した時、鬱であるが故に自分から愛されずに孤独になってしまうのだ。さて、どうにかして鬱の自分を愛することができないだろうか。鬱のときの思考を肯定できなくとも受容ぐらいはしてあげても良いのではなかろうか。私のセルフ認知行動療法は次の段階を待っている状態なのかもしれない。認知の歪みを見つけ、自覚し、自分を追い詰めない解釈を考え出してそれを採用するといったことは、確かに思考の拗れは改善されるが、非常に理性的であり論理的な態度である。ゆえに感情的な自分が置き去りにされてしまい、今のような乖離を生んでしまうことがある。もっと良いやり方があるような気がする。

とにかく鬱モードのときの自分を残念な自分だと自分で思わないようにすることがまず重要だ。たとえそれが進捗状況を滞らせるようなことがあっても、それを跳ね除けられるぐらいの肯定感があれば、鬱の私は安心して鬱でいられる。鬱状態の自分がその力を自力で出すのは厳しい。だから、躁のときの自分が力を貸してあげられれば理想的だろう。

鬱のときの良いところを伸ばしてあげるというのも良い線かもしれない。鬱のときの自分は認知の歪みがあるものの、躁の自分にはない明晰さがある。躁のときの自分が飛躍に飛躍を重ねる思考法を取るとしたら、鬱の時は持続的に物事を考えるのに向いている。ただ気力が湧かないせいで、結果的には何も進まないかもしれない。それでも鬱の時の自分は魅力的な文章を書ける可能性を秘めているし、それを言葉にするのは何も鬱の時でなくとも良いだろう。下準備をする期間だと思えば良いのだ。

正直、ここまで書いておいて言うのもなんだが、メタ的な視点で見ると、やはり理性優位であることを認めざるを得ず、鬱の自分というものは何れ殺されてしまうのだと思う。すべての自分を平等に愛するなんてことはできない。鬱で感情的な子どもっぽい自分というものは、やはり全面的に良い自分だとは思い難い。それでも、今ここにいることを完全に否定するのは違うし、その歪んだ考え方を安易に肯定してしまうのも違う。寛大な、限りなく無条件に近い愛が、ただただ鬱の自分を受容するという自分が必要なのだと思う。鬱の自分のために書いたこの文章が鬱の私の癒やしとなり、励みになったのは事実で、どんな時間や自分でも愛したいという思いを諦めずに済みそうなのが何より嬉しい。手と手を取り合って二人が笑っていられたら、私はこの上なく幸福に違いない。