柚木麻子『BUTTER』を読んだ
良い小説だった。面白いかと聞かれると私が面白いと思う基準からは外れているし、これを面白いと言っていいのか分からない節があるので表現しないが、さまざまな問題について考えるきかっけを与えてくれる本であることは間違いない。私は物語(ストーリー)の強制力が好きでなく、感情移入してのめり込みたくない性格だが、この小説は古典的な構成になっていたため、物語として読まずにはいられなかったし、「物語に引き込まれた」という体の書き方しかできないのがある意味で悔しく思う。
人はさまざまな役割を引き受けている。それは無自覚なこともあれば、成り行き上そうなったり、自ら望んで引き受けたりする。社会生活を送る上で誰一人として役割から逃れることはできない。そういった意味では、実存主義的な生き方を現代で貫徹することはかなり難しい。
主人公である里佳は、いわゆるバリキャリで仕事に打ち込む女性である。恋人も仲の良い友人もいて仕事もそこそこ順調で、何も不満なく生きているように見えた。華奢でおそらく容姿も良いのだろう。気取らず、謙虚で「非の打ちどころがない」。ここに異分子である梶井真奈子(以下カジマナ)という存在が入ってくる。
里佳は人に甘えることをしない自立した女性として描かれていたが、カジマナを知った序盤でこんな話をしている。
「どんな女だって自分を許していいし、大切にされることを要求して構わないはずなのに、たったそれだけのことが、本当に難しい世の中だ。取材を通して知り合う、成功者と呼ばれる女性ほど、それが顕著に表れている。皆、何かに強く怯え、ストイックに我慢し、異常なほど謙虚で、必死に自分を守ろうとしている」
これはおそらく彼女自身の最初の気づきだろう。皆が必死に自分を守ろうとしている、と書いているが皆のなかに自分も含まれているのではないか。里佳は己のスペックを無視して、自分が一人の女であることにOKを出していたカジマナを知り、驚嘆した。大切にされるためには努力をしなければならない。里佳はそう考えているようだった。実際、容姿、特に体型に気を使い、モデルのようなスタイルを維持し続けている様子が描かれている。
しかし、カジマナの機嫌をとって事件に関する情報を聞き出すために、言われた通りの食べ物を次々に食べるうちに里佳の体重は増えていく。体重が増え、太ると、里佳の予想以上に周囲から非難される様子が描かれている。自分でもなんだかひどく悪いことのような気がしてしまい、ダイエットを始めるが、カジマナにその必要がないことを諭される。恋人の誠曰く、努力を怠っているように見えるからダメなんだと言われるが里佳は腑に落ちない。
この辺りの話で浮き彫りになるのは、女性にかけられている圧力の一つが「美しくあること」。ここで大事なのは容姿の問題だけではなく、女性が社会からかけられている圧力が複数あるということだ。何のためにその圧力に耐えているのか。一つは自分を守るためであり、もう一つは「大切にされるため」なのかもしれない。大切にされるとはどういうことだろうか。(もちろん男性も社会から圧力をかけられているが、その話は後ほどする)
人は誰しもが愛されたいと願っているし、愛したいと思っている、とするならば(多分この価値観も絶対ではない)、そのためには他人の評価から目を背けることはできない。そういった理屈で私たちは社会から要請される理想像に近づくために日々努力を惜しまない。なぜ親以外の愛は条件つきなのだろう。そして、どこを読んでも、「大切にされるため」について、詳しく描かれていない。全体を読み込んだ限り、批判されず受容されることが「大切にされる」ことなんじゃないかと推測する。誠はこんなことを言う。
「──心を鬼にして言うけど、太ることだけは、本当によくないって。俺は別に女の人の体型に理想とかないけど、まわりに努力が足りないって思われて、信頼を失うよ」
つまり、一般的には、男性は「女の人の体型に理想がある」のだ。そして、そのために努力を惜しまないのが絶対条件なのだろう。現代では、女性にとどまらず男性の容姿についても女性にとって何らかの理想があり、努力を惜しまないことが良いとされている。例えば若い世代では、清潔感を強く意識するために脱毛をする人は増加傾向にあるし、メイクをする男性も増えてきた。眉毛サロンに通う人もいるし、美容室を日常的に利用することは一部の人にとっては当たり前になっている。歯のホワイトニングも欠かさない。歯のホワイトニングなんて実際の口内環境が良くなるわけでもなく、清潔感があるように見えるだけだ。人に見られる仕事の人は必須で、その他の人もしている人は少なくない。男女差を綯い交ぜにして語ったが、要するにただ単に美の追求をしているのでなく、「大切にされるため」≒批判されずに人に受容されるために容姿に気遣うのだ。体型管理なんて当然で、仕事でも趣味でも努力し続ける姿が賞賛されるし、努力しない人はまわりの信頼を失うらしい。
カジマナは周囲の批判の目を気にすることなく、生活してきたのかもしれなかった。なぜなら彼女は欲望に忠実な人間として描かれているからだ。それが里佳にとっては鮮烈だった。里佳は、欲望することも、欲望させることも良くないことだと思い込んでいた。しかし、それも徐々に悪くないのではないかと思うようになる。欲望を抑えつけていると、自分が欲しているものが分からなくなる。実際里佳はカジマナに出会うまでは食の楽しみは少なく、自分が何を食べたいのかさえ分からなかったのだ。食べたいものを自分で作って好きなように食べることを豊かであると感じ始めていた。
カジマナは決して善人ではないし、正しい存在としては描かれていない。主観の世界で生きている人間で、現実を捻じ曲げて自分の世界に閉じこもっている。しかし、彼女が自分を愛しているのは本当かもしれない。なぜなら、自分の欲望には素直に従ってきたし、自分の身体も愛おしく思っている。そして、里佳にも「あなたはもっと自分を好きになるべきなんじゃない?そうしたら、合わない相手とのデートなんかで自分をすり減らすのはもったいない、と自然に思えるはずよ。自己評価が低すぎるんじゃないの」とアドバイスしているのだ。カジマナは、決して悪人でもないと私は思った。
里佳は彼女に振り回され、価値観をどんどん変えられていく。恋人や友人とギクシャクして、何もかもが崩壊しそうになる。けれども、彼女は潰れなかった。いや、一度は解体されてしまったのかもしれないが、里佳の仕事は形をやや変えて続くし、周りの人が離れていったわけでもない。彼女が捨て去ったものは、他人軸で生きることだった。自分の軸で生きたい、そして欲望も役割も「適量」でいい。里佳は誠にこう言っていた。「もう他人に消費されたくない。働き方とか人との付き合い方を、自分を軸にして、考えていきたいの」と。
里佳は皆が安らげる場所を提供するに至る。玲子は「里佳が中心に居ると、みんな役割から自由になれるんだよ。性別とか地位が関係なくなるの。磁場が歪むっていうのかな。昔からそういうところあったけど、最近は特に……」と話していた。この社会で生きていくのに役割を全て、そして常に降りる必要はなく、「適量」でいいのだ。主婦も会社員も、男も女も、いつもその姿を保たなくていいはずだ。私がこの本を読んで一番感じたのはそういったことだった。
カジマナについての話をする。彼女は本当に結婚相手を探して、男性を包み込むような存在でありたかったのか。「根本のところでは、誰にも所属するつもりはなかった。それは確かだ。でなければ、こんな時間に男を残してラーメンを食べたくなるわけがない」という話を本当だとするなら、彼女は男性をケアする役割を全うしたかったわけではないのかもしれない。彼女もまた、里佳たちとは異なる形で役割を引き受け、生活してきた。これは想像だが、そうしなければ彼女は生きていけなかったのではないか。料理を作らなければ、男性をケアしなければ自分を保てなかったのではないだろうか。
カジマナが執拗に本物にこだわっていたのも気にかかる。カジマナはおそらく「本物」ではなかった。なぜなら生まれも育ちも田舎で、対比的に描かれている料理教室に通う人たちのような優雅な暮らしをしていたわけでもないのに、ジョエル・ロブションのフレンチを里佳に食べてくるように話していた。つまり、本物にこだわるのは本物への憧憬であって、元々本物ではないことがコンプレックスだったのではないか。(念のため言っておくと、実際のところ本物や偽物といった表現は適切ではない。カジマナが使っていた言葉だから借用して話している)彼女にとって心から愛せた食べ物はバター醤油ご飯で、それこそが本物だったのだ。なぜなら、カジマナの育った場所に良いバターがあり、自分のために作るといえば「バター醤油ご飯や、たらこパスタくらい」だったからだ。里佳に初めにすすめたのも、もしかしたらそれが自信を持って言える料理だったからかもしれない。彼女の原点はバターを使った簡単な料理にある。彼女は料理が得意だったのかもしれないが、本物にこだわるあまり、何かと何かをミックスするなどのアレンジが不得意だった。レシピ通りにしか作れないのは、オリジナリティの欠如を物語っている。彼女のアイデンティティとは何だったのだろう。
彼女はずっと孤独で、確かに心から話せる友人あるいはパートナーを求めていたんだろうと思う。カジマナが料理教室で七面鳥の料理を習って、教室の皆を招待して振る舞おうとしていたのは、きっと友達が欲しかったのだ。里佳ともあと一歩でなれたかもしれなかった。
「料理って、自分のために作ってもいいんですねって、ぽつんと言っていた。自分のためにしたことないの?って聞いたら、ええ、って。妹や恋人と一緒の時はちゃんと作りますが、一人のときはご飯とバターと醤油とか、目玉焼きご飯とか、たらこパスタとか、そんな簡単なものしか、ってしょんぼりした感じで言うの。私が、それずぼらな私にしてみたら立派な料理だけど、って言ったら、みんなが笑って、その時、梶井さんは初めてニコッてしたの」
カジマナが初めて笑った描写を読んだとき、とてつもなく胸が苦しくなった。彼女の料理教室での願いは果たされることなく、そして里佳とも友達になれなかった。裁判の際にカジマナは誰かを探していたのに、目が合わずそのまま退出した。その場面も印象的だった。
女性らしさ、男性らしさとはなんだろう。私にはそれが分からないのだ。誠が里佳の料理を素直に受け入れずに「そういうのは求めてないから」といった言葉に里佳はモヤっとするのも、どうしてモヤっとするのか分からないのだ。普通に読めば「女性は料理をするもの」という認識が見えるからフェミニズムに理解がある素振りをする誠に嫌気が差していると解釈できるかもしれないが、里佳を一人の人間として見れば、元々料理を作らない人に料理を求めるなんてことしないよ、くらいの意味にしかならない。
要所要所でそういった場面があり、その度に書き手の意図(問題提起する意図)が見えすぎて、読者が作者の狙い通りに引っ張られることを想像しながら読むと食傷気味になるのだ。
皆がなるべく平等にありのままで暮らすことを目指すとしてやや環境を変えるとするなら、女性が働きやすい環境を整えるのは大事だが、働かなければならない空気をつくるのは良くないし、主婦が肩身の狭い思いをしなくて済むような雰囲気がないといけない。逆も然りで、男性も仕事をしてもいいし、主夫でもいい。でももっというならば、極端になるが、自分のことを自分でケアし、一人一人が自立できるようになった方がいい。仕事も家事も一人できて当然だし、それが平等ではないのか。生物学的な性差はあるのかもしれないが、例えば生理が重くて仕事ができないので、休みをつくるのでなく、生理が来ても辛くならないように医学を進歩させるべきなのではないか。机上の空論だが、極端なことをいえばそんな気がしてしまう。
カジマナの周囲で亡くなった人たちは、自分をケアできない人たちばかりだった。男性という大きな主語で皆そうだとは言いたくないが、男性の一部はこのケアの問題に悩まされている。仕事一筋でやってきた人が、家事を一切できないのは想像に易く、そういう人は一定数いるだろう。「威厳のある父」は弱音を吐くことも許されず、仕事も何食わぬ顔で淡々とこなさなければならない。同性同士でケアしあうことは少なく、異性にそれを求める場合、可能であったとしてもパートナーくらいだ。男社会では、絶対になめられてはいけない。女性が痩せてなければならないという圧力を感じている一方で男性もこのような圧力のかかった中で生きている。
なんて生きづらい世の中なんだろう。だからこそ、男や女や社会的地位を忘れて羽を伸ばす場所が必要なのだ。大きな場所を作る必要はなく、二者関係のなかでそれがなされてもいいし、小規模な複数人のグループでそういった場を設けてもいい。地域社会が機能していた時代にもしかしたらそのような場があったかもしれない、上手く形を変えて復活させればいいのだ。皆、時々は普段の自分を忘れて休んだ方がいい。
この本を人に簡単に説明するなら、どう紹介したらいいのだろう。フェミニズムの話?否。実際にあった事件を元にしたミステリー?否。玲子と里佳の再生の物語?惜しい。私なら「本当に主体的に生きるとはどういうことなのかを探る話」というかもしれない。
『魔女の宅急便』シリーズを読んだ
角野栄子『魔女の宅急便』シリーズが福岡市の電子図書館にあったので順番に借りて読んだ。紙の本でも持っているのだけれど、4巻までしか多分ないのと、読んだのが子どもの頃だったので1から読み返してみることにした。宮崎駿監督のアニメ映画「魔女の宅急便」ではもっとフェミニズムの思想が色濃く入っているような感じがしてまたちょっと違う気がしたので、原作では何が主眼に置かれているのかをちょっと意識して読んだよ。文章は児童文学のため平易だし、なにより面白いのでいつもよりも速いペースで読み進めることができた。
『魔女の宅急便』以下『魔女宅』はキキの成長する過程を描いていて、シリーズを通してキキが13歳を迎えるところから35歳のお母さんになった姿まで読者は目撃することになる。ただし、最後の巻ではキキの子どもに焦点が当たるため、キキの物語は5巻までかなという印象。この成長の過程を読めるのがこのシリーズの面白さの半分を占めていると思ったが、面白いのはそれだけではなかった。
読み終えて納得したのは、『魔女宅』はタイトルの通りの魔女の仕事に書きたいことが詰まっていたということだ。キキの仕事である宅急便は、物を運ぶだけではない。物だけでなく、目にみえない「モノ」も運ぶので「もの」が適切かもしれない。何度も繰り返し出てくるのが、宅配を頼まれたキキが経験するちょっと不思議な出来事。明らかにファンタジー(空を飛ぶ魔女が出てくる時点でファンタジーなのかもしれないがそれは据え置くとして)の展開だこれ、というところまでいかずに、依頼主や受け取る人個人個人特有の世界が見え隠れするという構成がどの巻でも登場する。
私たちはアナロジーを通してそれぞれに固有の物語の中で生きている。それは、社会から見たその人の物語とは異質で、整合性が保たれていない場合もある。極端な例をいえば客観的には妄想と言われるようなことを信じ込んでいるといった具合である。それは程度の差こそあれ、誰にでも当てはまる。キキはそういった各々の世界と現実を媒介する存在で、空を飛ぶことよりも、実は媒介者であることが何よりもすごい魔法で、この『魔女宅』シリーズのもう半分の面白さなのだ。通常、誰かの物語に入り込むにはかなり親密な関係でないと実現し得ないし、今は科学的に考える人が多いので、どんなに親密な相手であってもその人の物語に寄り添える人は少なくなっているように思う。
キキ、そして魔女たちは、人々の各々の物語に寄り添ってくれる稀有な存在であり、『魔女宅』とは、人それぞれの世界や目に見えないものの大切さを教えてくれる読むとほっとできるような幸せな物語だった。
私のいろいろ音楽遍歴
久しぶりにブログを書こうと思った。人の音楽遍歴を聞いているうちに、自分も整理したくなった。覚えていないところもあるけれど、書いてみる。
とりあえず演奏として音楽に初めて触れたのは4歳のときで、私はヤマハの音楽教室に通っていたらしい。ピアノを習っていた。エレクトーンをやった記憶もうっすらある。後に分かるけど、その影響で絶対音楽があった。(普通消失することはないと思うんだけど、その後難聴にかかったことで、なぜか狂ってしまったので今は相対音感だけある)ドライヤーの音はB♭だ~とか、シーソーシーソーシーソー!と救急車の音を音名で言ってたみたいだし、生活音さえ音楽だった。話が脱線したけれど、最初に触れたのは主にヤマハの音楽ということになる。
その後引っ越しなどのきっかけで個人レッスンを受ける。元々ヤマハの先生だった人に教わる。ハノンではなかったけれど指の練習曲(名前は忘れた)とブルグミュラーやソナチネ、ツェルニー、ギロックを経て、聴いたことのあるクラシックの曲を高校3年辺りまで弾いていた。完全に趣味としての音楽。その中で上達に苦しんで演奏で食べていくのは厳しいなと思うようになっていた。いわゆるコンクールに出るとかそういった経験はなかった。比較的楽しく音楽とは付き合っていた。ただ、発表会なるものはヤマハ時代からあったので、うろ覚えだけど大きなステージで弾いて、最後に記念撮影するときに疲れて号泣した記憶がある。小学生以降も発表の時に失敗して一旦弾きやめて、再度弾けるところから弾くみたいなことをした記憶もある。
高校生になって、ポピュラー音楽も少しやった。そして、ピアノ以外にもオカリナも習った。オカリナは、当時のピアノの先生が吹いていたので同じ先生から教わった。オカリナはおそらく5年くらい習っていた。ピアノは計算すると大体15年ほどになる。
楽典的なことはヤマハ時代から少しだけやっていたけど、真面目に習っていたのは高校生になってからだった。正直もっと早くやった方が良かったなと思う。その方が曲の理解が深まるからだ。演奏関係はざっとこんな感じ。
作曲自体は習ったことはないし、どちらかというとアレンジが多い。小学生時代に伴奏のないメロディだけの曲に伴奏をつけたり、リコーダーで吹きたいジブリの曲を聴いて楽譜にして、テストのときに吹いたりしていた。(耳コピは絶対音感があると比較的容易っぽい)MIDIシーケンサー自体は中学の時くらいから触れていた記憶がある。そこまで得意ではなかったし、今でもDTMは苦手。
↓ リコーダーのテストで吹いた思い出の曲。
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そういえば高校の時に一曲作ったことがあって、当時の高校の音楽の先生とすごく揉めた記憶がある。弱起だったからだ。クラシックの基本を押さえた曲をまずは作りましょうという話だったので、弱起を持ってきたのは良くなかったんだと思う。その当時思い浮かんだ曲が弱起しかなかったので、喧嘩したまま提出した。不可にならなくてよかった。
そして、音響の学べる専門学校に行きたかったのだけど、両親に反対されたので渋々大学を受験した。いわゆるクラシック音楽を学ぶところは考えていなかったので、(どう考えても準備が間に合わない)それ以外の領域が学べるところを探した。しかし、第一志望を受験することはなかった。自分を追い詰めすぎて精神を病んでしまったのだ。
結局、私立の音楽科に進んだ。楽理的なこと以外にも実験的な音楽に触れたり、実験音楽を自分で作ったり、ガムランを演奏したり、尺八に触れたり、はたまたフィールドレコーディングのようなサウンドスケープ的なことをやったり、レコーディングを学んだり、自分の想像していた以上の世界に触れた。中でも音楽美学(音楽学、音楽哲学)に興味が湧いたので、卒業後もその辺りの本をずっと読み漁っている。
自分でやる音楽はそんな感じ。次はどんな音楽を聴いてきたか書いてみる。
幼少期~小学生辺りまではヤマハ音楽だったので割愛。小学校高学年のとき、周囲の友達が流行りのJ-POPを聴いていたけど、全然馴染めなかった。ただジブリの音楽は聴いていたし、名探偵コナンのテーマソング集を聴く中で一組だけ聴ける音楽があった。いや、音楽自体は他のアーティストも聴けたのだけど、歌詞が意味不明に見えて好きじゃなかった。その一組だけ聴けるコナンの音楽は、GARNET CROWだった。曲を聴かなくても歌詞の意味が理解できた。それだけでその音楽は自分にとって価値があった。
「君と僕とは別の生き物だから 好みが違う歩く速さも思いの伝え方も」
この始めのフレーズを見て小学生だった私は「ちゃんと意味が分かるし、良い!」と感動した。今見ると何気ない歌詞かもしれないけれど、意味不明に思えるJ-POPの歌詞の中では当時は衝撃だった。
そうして、彼女らのことをもっと知るためにメンバーの好きなアーティストを全て聴いた。そこでまた衝撃が走る。Bjorkとの出会いだった。中1の時だったと思う。
↓ Bjorkの中で初めて聴いて、今でも一番好きなアルバム。
「音楽ってこんなに自由でいいんだな」と思った。掴みづらいメロディだけど、ちゃんと色彩感があって、リズムが生き生きと感じられて、音使いが面白くて最高だった。
Bjork関連で北欧系のポップスといわれるようなアーティストも聴いた。高校でポストロックやエレクトロニカにハマるきっかけはこの辺りの影響。
中学時代はとにかく洋楽とBeing(現B ZONE)関係の音楽を聴いていた。書き出そうと思ったけれど、50以上はあるのでやめておく。流行りの歌はもちろん、60年代から90年代の洋楽も満遍なく聴いていた。クラシックも好きで、ピアノ曲を中心に聴いていた気がする。
高校・大学時代はポストロック、エレクトロニカ、ノイズ、アンビエント、ミニマル、民族音楽など少し変わった音楽をメインに聴いていた。ジャズ、アニソン、ゲーム音楽もこの時期に良く聴いた。それらの音楽の中でもmumが好きだった。
しかし、大学生になり、音楽を学ぶことができるようになってから音楽が嫌いになっていた。正確にはメロディーの主張の強い音楽が受け付けなくなった。もっと正しくいうと、音楽の暴力的な側面が受け入れられなかった。どんなにこちらが拒否をしていても、聴くと否応なく心を動かされてしまうその強引さ、何も思いたくなくても頭に残って繰り返される音楽の暴力性、そういった側面が嫌になった。
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そんな中で聴けたのが先ほどあげた少し変わった音楽たちだったのだ。そして徐々に私は日常で音楽を聴かなくなっていった。それに、静寂は私にとっては一つの大事な音楽だったから、ある意味静寂を聴く時間が増えたともいえる。サウンドスケープを学んだことなども若干影響しているように思う。
「静寂を聴く」人は実は結構いて、大学の講師や教授でも「最近聴いてる音楽ですか、最近は静寂を聴いてますね」などと返答しているのを何度か見かけて、正直ちょっと嬉しかったし、普段音楽に触れている人たちだからこそ、その返答は良いと思った。
話はそれるが、無と静寂には大きな隔たりがあると思う。何も聴いていないのでなく、わずかな残響音を聴いている。すべてを拒絶するわけでなく、意図的に何か音を鳴らすのでなく、静寂を聴くとは、今ここにある自然の音を受容する行為だ。
大学を卒業後、病気の関係もあり、たくさんの音楽は聴けなくなってしまった。最近聴こうと思える音楽はクラシックのピアノ曲だった。本当にごく一部の音楽。卒業した後にクラシックの良さというか、馴染みやすさに気が付いた。というのも、クラシックは私の中で弾くものであり、聴くものではなかったのだが、幼い頃から慣れ親しんでいたこともあって、聴きやすく疲れにくいことに気づいた。ただやっぱり常に聴くわけではなく、調子が良いときに聴くだけ。生真面目にベートーベンを聴くときの態度で一時期は聴いていたけれど、聴取の態度としてはべつに不真面目でもいいじゃんと最近は思う。なぜなら、生真面目に聴くのはクラシックの一部での慣習みたいなものの影響だったからで、それに縛られる必要は全くないと気づいたから(ただそういう聴き方もあるので、聴き方の一つとして保持はしている)。
今後音楽関係でやりたいこととしては、趣味としてGARNET CROWの全曲をオルゴール化する計画があるのと、作曲はクラシック系に的を絞ってやることの大きく2つがある。演奏関係も何かやりたい気もしているし、遊びでもっとDTMっぽいこともしたいとは思ってるけど、環境が厳しいので当面無理かなと思っている。作曲に関してはしばらくは一人で勉強することにしている。和声の復習からやってみてるけど、結構忘れてるし、実践的な場面であまり生かしたことがないので生かしていきたい。時間はあまりなくても、下手でも投げ出さずに地道にやっていく。
「名刺代わりの本10選」タグの本の紹介
Twitterで#名刺代わりの本10選というタグで本を選んだので、簡単に紹介したいと思う。必ずしも好きであるとか、自分の本質的な部分と関係があるわけではないけれど、自分を説明する上で必要かなという本を選んでみた。
『はてしない物語』/ミヒャエル=エンデ
『星の王子さま』/サン=テグジュペリ
『ブラームスはお好き』/フランソワーズ・サガン
『愛人 ラマン』/マルグリット・デュラス
『黄色い目の魚』/佐藤多佳子
『セロ弾きのゴーシュ』/宮沢賢治
『山羊の歌』/中原中也
『まど・みちお全詩集』/まど・みちお
『音楽美学』/野村良雄
『楽器の音響学』/安藤由典
『はてしない物語』/ ミヒャエル=エンデ
読書を始めて間もない頃(といっても小学生だが)に出会って、初めて感動した物語がこちら。『モモ』も面白いけれど、物語として圧倒されたのは『はてしない物語』だと思う。読書にハマるきっかけもこの本であり、自分もこんな物語を書きたいと強く願うきっかけにもなった。本の詳細を書くことは別の機会にとっておきたいので内容にはあまり触れないでおく。
昔から存在は知っていたけれど読んだのはごく最近で、たしかYoutubeの本の紹介動画を見て興味を持った。読んだらすごく良かった。エンデと比較するとどことなくフランスっぽさを感じるような本で、一つ一つのモチーフの象徴性を考慮しながら読み進めていくと奥深い味わいがあった。一つの星を人の心として読むなら、薔薇やバオバブの木は、愛や二次的なネガティブな感情となり、そういったものとどう向き合うべきか考えることが可能で、弟が原語で読むほど好きなわけもなんとなく察した。
『ブラームスはお好き』/ フランソワーズ・サガン
大学生のときに久しぶりに読んだ小説がサガンだった。『悲しみよ こんにちは』を先に読んで面白かったので、次にこちらを読んでみたけれど、物語としてはこちらの方がより共感できた。今となってはあまり覚えていないのだけど、繊細な感情描写が印象に残っている。パリの雰囲気も文章から感じ取れて良かった。他人からすれば些細な出来事にすぎないことをドラマティックに描いているような小説で、すごく味気ない言い方をすると、お洒落な昼ドラだな~などと思っていたのだけど、昼ドラよりも良いので読んだことがない女の子にはおすすめしたい本。
『愛人 ラマン』/マルグリット・デュラス
こちらも大学生のときに手に取った小説だった。文体が強烈に印象に残っていて、コラージュ写真のように断片的な映像が組み合わさってできているような不思議な感覚になった。恋愛というより家族の話という記憶があるけれど、内容はあまり覚えていない。
『黄色い目の魚』/ 佐藤多佳子
「正しい日本語」のような文章しか当時読んでいなかった私にとって衝撃的だったのがこの本だった。流行りの現代の小説をそれまで読んだことがなかったので、文章なのに言葉遣いがかっちりしていないことに本当に驚いてしまった。好きとか嫌いというより、この本がきっかけで書くことについてより考えるようになった。青春小説はあまり好まないし、人に薦めようとは思わないけれど、佐藤多佳子さんの本を読むとほっとする。たまに読み返したくなる人の本。
『セロ弾きのゴーシュ』/ 宮沢賢治
こちらの文庫本を購入して児童文学として最初は読んだが、先生曰く賢治の作品は詩だと教わってから「詩とはなんだろう」と考え始めた。精読したのは「風の又三郎」だけど、音楽的なことやさまざまな「あいだ」にいる主人公に触れられた「セロ弾きのゴーシュ」の方が好みだった。詩〈ポエジー〉についてはまだ詳しく知らないし、未だに考えているけど、おそらく18世紀頃のドイツ・ロマン主義の美学と関係があるように思う。
『山羊の歌』/ 中原中也
NHKの100分de名著で知った詩集。詩も好きだけど、なぜか中也の人柄が大好きになってしまった。一通り読んでも、また読みたくなるくらい彼の詩が好きで、上手く説明できないぐらい良い(『はてしない物語』も大好きだけど良さの説明が困難)。手元に置いておきたい詩集。
『まど・みちお全詩集』/ まど・みちお
小学生の時に教科書に載っていて、もっと読みたくなったのですぐに借りてきて夢中で読んだ思い出。まど・みちおさんの生き物や自然の詩が本当に好きで、かなり影響を受けた気がする。優しい気持ちになれる。
『音楽美学』/ 野村良雄
「良い音楽ってなんだろう」「音楽とはなんだろう」という素朴すぎる問いを抱えていた頃に出会った本。本当に出会えて良かった。音楽美学について語れるほど勉強はしていないけれど、この著者の本をきっかけに私の音楽についての考えは深められる準備が整ったと思う。
『楽器の音響学』/ 安藤由典
まだ読み終わってないけれど、音響学関連で持っている本がこちらだったので選んだ。音響学もまだまだ不勉強だけど、やっていてとても面白いので自分を説明するのには必要だと判断した。音楽が好きである以前に私は楽器の音が好きなので、楽器の音について音響学的に理解することはかなり重要だと思っている。
以上選んだ10冊の本の紹介でした。5年後、10年後どんな変化があるのか今から楽しみで仕方がない。
いつか世界に溶けていく
いつか世界に溶けていくことを、私は肯定的にも否定的にも捉えたくないと直感的に思っていた。(今思えば、)なぜならそれが救いになろうと、不幸の元になろうと、人為的秩序の世界において存在するだけの人間の価値観に過ぎなかったからだ。ただ世界に溶けていくこと、それは閉じられるのでもなく、拓かれるのでもない。私の、いや人の通過点に過ぎなかった。
また、いつか世界に溶けていくことを、わたくし個人が居るべきか居ないべきかという自我(生活圏の私)の問題に直結して考えるべきことでもなかった。当然あなたが居ても居なくてもいいということでもない。どうでもいいことなんて何一つないと思っているが、「どうでもよくない」と今主張したいわけでもない。分かり得ないことは分からないと諦めに似た感情を言いたいわけでもなかった。
生活圏にいる私という存在は、私を肯定するし、他者をも肯定するが、それは暫定的にわたくし個人が決めたものだった。そういった人間的な取り決めの世界を超えた私たちは「在る」と「無い」を揺動し、蠢いているような存在だ。パラフレーズすれば、人はたとえ生きていても、絶えず世界に溶けかかったり、浮き立ったりを繰り返している。夢を見たり、意識が飛んでいたり、思考から離れていたりする時、私達は其処にいるのではなく、世界に溶けている。
物質の不確かさよりも観念の存在に取り憑かれている自覚がある。概念は物自体に即していて心の働きと関係なく他者と共通するが、観念は対象物に対して認識されたものであり、個人的なものだ。本当は言い表し得ないものを言葉で表現できてしまうことに違和感を覚えずにはいられないが、それはそれとして、人と分かち合うことができない観念は、一見存在するかどうかすら怪しいのに、はっきりと私の中に存在していると感じる。例えば美は文脈によっては概念ともなれば観念ともなり得るが、観念としての美を感じとる時、私は言いようのないものの存在を強く感じている。ところがそれを言葉にすれば、忽ち観念的な性質は失われ、認識的概念へと変貌している。そのような存在に私はひどく取り憑かれ、頭の半分はもう奪われてしまった。
世界に溶けていくと観念は消えてしまう……。私が喪失を考える時はいつもそのことを思う。廃墟には観念の顕在化しない蠢きが、そしてかつて存在したものの断片があった。その断片を徐ろに拾い上げて私がこれから何をなくすのか考えた時、それは私という存在ではなく、私の中にある人と分かち合えない何かだった。
芸術と認知のはなし
少し前に出ていたとある論文のことを思い出したので噛み砕いて話す。おそらくその人は認知(直訳では神経美学と出た)に関する研究をしている人だったと思う。「思う」というのは、フリーではアブストラクトを確認することしかできなかったのと、英文だったので重要な箇所しか私が抜き出していないからである。以下意訳。
「芸術の普遍性は科学的に見れば、我々の神経系システムが人種や時代関係なく共通することに起因するものであると考えられるが、一方で、芸術の多様性は(芸術作品が多様であるという意味合いも含むが、一つの作品から多くの解釈がなされるということについての多様性もあるかなと読み取った)これらの(おそらく知覚を含む認知機能に関する)神経系が柔軟で、一時的な文脈や目的に調和し、生涯の経験を通して変化し続けることによって生じるものであると考えられる。」
知覚のメカニズムを学んだことがある人にはピンと来る話だが、我々が物を見たり、音を聞いたりするときのメカニズム自体は人間であるからおそらく共通するが、例えば色の見え方というものは人によって差があるし、音高の知覚ではなく、音楽の認知まで広げてみると、それは人間の生得的な感覚と、後天的に経験の中で獲得してきた感覚とが融合してある認知のされ方になっているということが確認されている。単に音高を知覚するよりも、音楽を認知する場合はより高度なことをしており、鑑賞するよりも作曲することはより高度に認知活動を行っているとされていることからも分かるように、芸術鑑賞や創作は認知心理学的には非常に高度な認知活動であるといえるのだ。私には、我々の神経系が「不完全」であるからではなく(そもそも神経系の完全とは一体何を指すのか私には分からない)、非常に柔軟であり、「生涯にわたって変化し続けるものである」からということが非常に重要であるように思える。
録音技術をはじめとする音響関係の技術が発達し、我々が通常指し示す音楽は、多くの場合繰り返し聴ける劣化しない再生可能音楽を指すようになった。その音楽を聴くとき、感じ方が人によって違うのはもちろんだが、時と場合によっても変わるということに注目した人は少なくないだろう。その理由の一つとして今回の認知機能の話を挙げることができる。音楽に特化して話したが、それは絵画を鑑賞する際もそうだろう。我々が芸術を飽きることなく鑑賞できるのは、神経系が柔軟に変化し続けているからだろう。私たちの感性は変わらない部分もあるが、経験によって変わり続ける部分も大いにある。
芸術は心を豊かにするだけでなく、変わり続ける豊かな心があるから鑑賞できるのだ。芸術作品は、我々の心の反映を微細に示す鏡でもある。
参考
Neuroaesthetics and art's diversity and universality
Marcos Nadal , Anjan Chatterjee
柴崎友香『ビリジアン』を読んだ。
ツイッターで感想を書いたので。それを貼りつけ。簡単に。
記憶をランダムに綴った短篇連作だった。色彩感が豊かで情景が事細かに語られているのが印象的だった。記憶は色による印象が強いからそこに関して大変共感した。
自己の形成を時系列順に、ある一つの物語として我々は持っていることが多いけれど、これはそういった語り口ではないところが面白い。バラバラな記憶、エピソードによっても自分の成り立ちが見えてくるのでは、という推測に挑戦したような小説に思えた。
以前、人と話していて自分が病気によって何が損なわれたのか考えた時、「自己の物語」の遂行不全に陥っていることを自覚した。記憶によって自分や自分らしさを再編成するのが困難になっていると気づいたのだ。でも、『ビリジアン』を読むと、そういった物語は必ずしも必要ではないことに気づかされる。たとえ「自己の物語」が何らかの理由で途中で断絶されていても、自分を記憶によって再編成することが可能なのでは、とこの本を読みながら思った。どのようにしてそうするのかはこの小説の書き方に則れば良いのではないだろうか。断片的でもエピソードを抽出することがおそらく要となる。
地続きな記憶の上で自分が成り立っていると考えるのが普通のように私には最初思えたのだけれど、記憶は順序良く行儀良く並んでいるものではない。何かトリガーがあり、浮かんでくるものだと思う。そのエピソードを思い出す中で自分はこうだったんだと再認識すること、それが自分らしさに繋がっている。
物語が一本の線で繋がっていることに慣れているので、読み物として素直に楽しめたかというとそうではないのだけれど、良い読書経験になったなあという感想。











