万華鏡の世界

自分と自分と時々君

充実した生活とは

最近、自分にとって充実した生活とはなんだろうと意識することが良くある。

おそらく次の二点が満たされていれば充実を感じることができるのだが、他の人はどうだろうか。

①やりたいことが充分にやれたか

やりたいことと言っても、様々な次元で、あるいは種類があるが、最近の自分は特にインプットに力を入れたいと思っている。本を何冊も購入したため、それを使って読書や勉強がしたい。そのため、読書か勉強が充分にやれたかが一つの指標となる。

充分とは何か

「これだけ長い時間できたのだから満足だ」という満足の仕方もあるが、私の場合は「この内容についてこれだけ考えることができた、知ることができたので満足だ」という内容の充実を求める傾向が強い。

しかし、例えば何か一つの話題について100ページぐらい書かれていて、読むのに苦労して10ページしか進まなかった時は、時間数を見て充実を感じることが可能かもしれない。

②バリエーション豊かな生活が送れたか

やりたいことを何か1つ充分にできたとしても、振り返った時に一日の中でそれしかしてないことに気づくと、寂しく思う自分がいる。やりたいことには様々な次元や種類があるため、一日の中ではそれを複数行うことが可能なはずだと考えるために生じる感情であろう。

例えば家事をやって、勉強をする。それだけで充実感が変わる。集中する時間とのんびりまったりした時間を過ごす。そういった対比効果的な要素を取り入れると簡単に充実感を味わうことができる。

 

以上が短期的に見た自分にとっての「充実した生活」だが、長期で見るとまた違う視点が生まれてしまうのが考えどころで、あまりに多岐に亘る趣味を抱えていると、自分が到達したい域が存在する場合、すべてにおいて到達できなくなる可能性が生まれてしまう。時間は限られている故、読みたい本が全部読めるとは限らない。おそらく全ての望みを叶えることは不可能だろう。その場合はこうなりたいという願望をレベルごとで区切って考えておいた方が良いかもしれない。最低限音楽心理学のこの辺りは網羅しておきたい、だとか、歴史哲学が何なのか説明できるぐらいにはなっておきたいだとか。それができたら次はこれを知りたいだとか、できるようになりたいだとか。

そしてそれらのやりたいことがレベルを上げるにつれて統合されていくモデルをぼんやり思い描いておけば、なんとなく気楽になれる(無理に統合する必要はないのだけれど)。

ちょっと話からずれてしまうが、勉強の面白いところは全く意識してなかった分野と分野があるときふっと繋がることがあるということだ。それを、意識的に繋げることも可能だが、私は偶然に任せていたいと考えている。勉強に関する話はまた後日詳しく書きたい。

 

ここまで書いておいて何だが、私には明確な目標があるわけではないし、その場が気持ち良ければオッケーな快楽主義が基本で、現状で満足している故に、何か向上心を持って行動しようという気が全くない。ただ、その日一日で満足にいく生活が送れないのなら、一生満足することはできないのではないか、と思う。向上心ゆえに満足しないという姿勢ならばまだ良いが(むしろそれは望ましい生活態度かもしれない)、充実感を得られないまま一生を過ごすのは喜ばしくないだろう。

 

今日一日がやりたいことをできずに終わってしまう前に、楽しい時間をつくって楽しく過ごしたい。私はそれだけのために生活している。