万華鏡の世界

自分と自分と時々君

ある女の子のおはなし①

女の子はお母さんとお父さんが大好きでした。そして、女の子は絵本が好きでした。絵本だけではなく、本も読めるようになると、本も読むようになりました。お母さんとお父さんは絵本や本を読む女の子を褒めました。すると、女の子はますます嬉しくなって本を読みました。読書をする、そしてそれを周りの人が褒めるということは、3歳だとか4歳くらいの頃からずっとずっとその後しばらく続きました。

女の子はたくさん親に愛されたいと思っていたので、褒められることならなんでもしました。勉強も元々好きでしたし、その上褒められるので、やらないわけがないという感じで日々勉学に励みました。国語の教科書を音読をすると、先生からシールがもらえるようになった時は音読もしました。シールが大好きだった女の子は、たくさん集めたくて毎日20回くらい音読しました。親が聞いていても、聞いていなくても音読しました。親は忙しくて、1人でいることも多かったので、部屋で1人音読するのでした。本当は親が聞いていなければならなかったのですが、仕方ありません。でも、女の子はズルをすることなく、音読しました。そして親もそれを信じてサインをしてくれました。女の子のシールはどんどんたまっていきました。女の子は嬉しくて、徐々に音読する回数を増やしていきました。そして、毎日50回ほどするようになった時、先生が「本当に読んでいるの?この回数を?」と疑いの目を向けたのです。女の子は真面目に読んでいたのに、ズルをしているのではないか?と疑われたことに対してひどくショックを受けました。「…はい、音読しました」女の子は疑われたことがショックでなりませんでしたが、ズルはしていないので正直に答えました。先生は「ふうん」という感じでシールを貼ってくれましたが、その時私の心には何かが突き刺さったのでした。

それ以来女の子は、何度も同じ夢を見るようになりました。先生が悪者になって、生徒の皆を洗脳する夢でした。不思議な水晶のような玉で生徒を操っている夢でした。洗脳されそうになり、いよいよピンチだという時、いつも必ず目が覚めました。気味の悪い夢でした。「先生は悪者じゃない、先生は悪者じゃない…」分かってはいるのですが、もし先生の教えていることが正しいことじゃなくて、悪いことだったらどうしよう?と不安になる日々でした。でも、家で自主的に勉強していた内容と、先生の教える内容はほとんど同じでしたし、先生は夢の中とは違って優しかったので、やっぱり夢は嘘なんだ、と思うことにしました。

褒められることが何よりの喜びだった女の子は、普通の子が数回やるものを数十回やったり、必ずやらなければならないものを誰よりも早く終わらせたりすることでさらに褒めてもらえるように頑張りました。女の子は勉強も好きでしたが、運動もできたので運動も頑張りました。縄跳びを覚えて、二重跳びが出来た時、すごい!と周りに褒められて嬉しくなり、もっと上達したいと思ったので、毎日縄跳びをするようになりました。そして、前跳びが1000回跳べるようになりました。しかし、「本当に跳んだの?」と言われてしまい、あまり褒めてはもらえませんでした。前飛び、後ろ飛び、交差飛びなどあらゆる跳び方をマスターしました。でも、思っていたほどあまり褒めてもらえませんでした。しかし、すぐに縄跳びをやめることはありませんでした。面白かったのです。二重跳びも交差二重や後ろ二重跳びなど種類を増やしてみましたが、初めて二重跳びが跳べた時ほどは褒めてもらえなかったのと、三重跳びがどうしても跳べないという壁にぶつかり、縄跳びを極めることはそれ以上することがありませんでした。

女の子は、計算ドリルと漢字ドリルが好きでした。一学期の間に最低二回通り終わらせることがノルマとしてあったので、いつもなるべく早く終わらせることを心がけていました。それは次第にペースアップしていき、最終的には漢字ドリルを四日で、計算ドリルを一週間で終わらせるようになりました。しかし、あまりの早さに褒められるどころか周囲から変な目で見られるようになってしまったのです。親も特に褒めてはくれませんでしたが、やらなければならないことを先に終わらせて遊ぶ、ということが好きだったので、そのやり方を変えようという気にはなりませんでした。

女の子は、習字が苦手でした。だから人よりもたくさん努力しなければならない、と思い、とにかく何枚も何枚も書いていました。授業内では満足のいく出来にはならなかったため、家に持ち帰ってその日一日中遅くまで書いていました。冬休みの宿題の時は、必ず100枚書く、ということを自分で決めて書きましたが、100枚書いた事実を誰にも知らせなかったので、特に褒められませんでした。

勉強や運動で褒められることに限界を感じた女の子は、やっぱり読書だ、と本をたくさん読みました。始めの頃は興味の赴くままに読んでいましたが、本を選ぶのが次第に面倒になっていったので、世界の名作集というような厚手の本を好んで読むようになりました。いかにも分厚い本を手に取っていると、周りから「すごい!」と褒められるし、一石二鳥でした。この時期は、広辞苑も持ち歩いて読んでいました。合間にその当時友達の間で話題になっていた本や、おすすめの本として紹介されていたものを読みました。中には表紙の雰囲気で目に留まったものに手を伸ばして読んだものもありました。次第に女の子は読書をすることを褒められなくても良いと思うようになりました。本を読むことそれ自体に喜びを見出したのです。そして、ある作家の本との出会いをきっかけに女の子は書くことにも関心を寄せるようになりました。

 その作家の本との初めての出会いは自宅の本棚でした。家に置いてある厚手の本。ハードカバーで、古ぼけていて描いてある絵が奇妙に映りました。対象年齢を見ると小学校高学年とあったため、低学年の自分でも読めるだろうと思ってその子は読んでみたのでした。なんとなく手にしたものだったけれど、読み進めると予想以上に面白くその後何度も何度も読み直すほどその子のお気に入りになった本でした。
 そうして、女の子が次にその作家の本に出会ったのが学校の図書室でした。例の本は、埃かぶった厚手の本が立ち並ぶところに立っていました。ひっそりと周りに気づかれないように。ほかの本と違う深い赤色の表紙でした。ビロードのようなちょっと高級さを感じさせる素材で、手に取ると角度によって色が変わって見えました。このときは手にとって名前を確認しただけで戻したのでした。
 ある時、女の子が近所の本屋に行くとその例の本と再会しました。出会った時とは違うグレーのケースに入っていたため別の本かと一瞬思いましたが、印象的なタイトルは変わっていませんでした。ケースから取り出して見ると、学校に置いてあったものよりも一層赤く輝いて高級そうな様相を呈しており、描かれている蛇の目がこちらに向くのではないかと女の子は目が離せなくなりました。これは運命なんだ、と思いすぐさま購入し家に帰るなり読み耽りました。
 女の子は以前読んだその作家の本よりも内容的に深くて驚きました。アモラルな童話もそれはそれで好きでしたが、この本の場合はそうではありませんでした。細かなメッセージが装飾のように散りばめてあり、物語の中心となるメッセージもしっかりと全体を通してその存在感を発揮してました。話の題材も良い、展開も面白い、子供でも大人でも楽しめる。ただメッセージを受け取るときに、どの程度感じとれるか、どのように感じとるのかというのは人によって世代によって違うのではないだろうかと女の子は思いました。実際解釈の幅は広くとってあり浅くも深くも読めそうでした。この本は女の子にとってまさに「夢を与えてくれたもの」でした。しかしながらそれは、ファンタジーそのものに対する感動というより、文章表現によって作者より送られたメッセージを感じとれた(と当時思った)ことへの感動でした。文章というのはここまで人に揺さぶりをかけることができるのかと女の子は幼心に感動しました。元々人見知りをよくする天邪鬼な女の子は、会話によって自分の思いを表現するのは苦手でした。だからこそ文章による思いの伝え方に惹かれたのかもしれません。

児童文学に影響を受けた女の子は、小学校低学年の頃から物語を書くようになりました。話の設定や、展開はめちゃくちゃでしたし、稚拙な文章ではあったけれども、何かブレないものがそこには存在しているようでした。それによってその物語は、統一感をかろうじて持っていたし、教師の目には留まる程度の輝きはあったのでしょう。
 ただ、授業で書いたもの以外にまともに完成した物語はありませんでした。なぜなら、アイデアばかりが浮かんでそれを書き出すのが追いつかなかったからです。それにその時の女の子にとっては、書き出す作業よりも図書室にある物語を読み込むことのほうが魅力的で重要でした。暇があれば本を手に取り、時間も忘れて夢中になって読みました。作者ごとに特徴的な文体があり、さらに国によっても時代によっても雰囲気が様々でどれも新鮮でした。

その女の子にとって小学生時代とは、無邪気に言葉を綴る時代でした。ただ書くことが楽しくてたまりませんでした。そして、読むことも楽しかったのです。文章表現の可能性に心躍っていました。詩や物語を好み、書いたものを発表する場で生き生きとしていました、誰かに耳を傾けてもらい共感されることが嬉しくてたまりませんでした。もし女の子がそのまま成長していたら、今でも同じようにできていたなら、それはそれでおめでたいことだったかもしれません。楽しく書いて読んでもらう喜びに浸ってそれで満足する。きっとそういう形もあったのでしょう。それは深い喜びや楽しさを味わえずに終わる道なのかもしれませんが、それと同時に表現や本の「現実」を目の当たりにしなくて良い、苦しみや辛さを感じなくて良いというメリットがありました。しかし、女の子はある問題にぶつかることになります。