万華鏡の世界

自分と自分と時々君

「完成度の高いブログ」に萎えてしまうわけ

完成度の高いブログと一言で言っても様々あるが、ネットによくあるコラム的な「あんな感じの書き口」のブログに出会うと拒絶反応が起こる。

何故か。

・人間味があまり感じられないから。

もっと言うと

・物事との距離を置きすぎだから。

以上の二点を今書きながら思いついた。

私が読みたいブログはもっと生きることに格闘しているブログであって、何か生活に役立つ情報が欲しいわけではないし、アドバイス的な話を聞きたいわけではない。

苦しんで苦しみ抜いて自分や他者や世界と対峙している、そんなブログ。

日々の生活の中で考えごとを呟きながら何かしら製作・制作をしている人のブログ。

そういうブログを欲している。

であるから、非常に綺麗な形式でレトリカルな、よくある「完成度の高いブログ」は求めていない。

しかし、前の記事でも書いたが、「作る」だけでもダメ、「鑑賞する」だけでもダメ、「考える」だけでもダメ、とあれこれ条件をつけているとなかなか出会えない。

私は理想が高すぎるのだろうか。

人間的なブログを欲している。人間的な、あまりに人間的な。

音楽に求めていること

質の良いブログを探そう、というわけで音楽用語を用いて検索し、はてなブログを中心にいくつか回ってみた。

いろいろとあって音楽とは長い付き合いであるわけだが、今日様々なブログに触れてみて思ったのは、「私は音楽に関してどうしたいのか」ということだった。

最近の興味は専ら音楽美学にあるが、ガチの音楽美学・音楽哲学の方の話を読んでみるとなるほど、私はそこまで興味がないなということを思う。作曲においても、なるほど、私はそこまでの表現欲はないなと思う。というかそもそも、鑑賞をするにあたって気分を害することも多い。しかし、なぜか音楽について考えてしまう。呪いにかかったように音楽とずるずる関係を結んでいるため、嫌いだという感情が湧く。

しかし、全く音楽したくないのかと言われると違う。ピアノを鳴らし、曲をなんとなく弾くことは好きだし、エレクトロニカを聴くとリラックスできることが多い。曲もなんとなくふんわり作る。考え事もふんわりやる。他人から見れば中途半端でつまらないかもしれない。欲求がない以上、そのどれかを突き詰めてやろうという気は起こらないが、前の記事でも書いたように「最低限やりたいこと」は存在する。

私が音楽を嫌うのは音楽はどうやっても生の喜びを謳うものであるからだという抽象的な回答はできるものの、具体的に音楽というもののどこに嫌悪するのか言葉にしたくてここ数年は学んでいるように思う。それが今の素直な願望であって、それ以上の感情はない。

音楽の勉強は楽しい。曲を作るのも苦しいが面白い。楽しい、心地良いという気持ちを持って嫌いな気持ちを克服できれば幸いだ。私はまだ生きている。

 

ところで、「質の良いブログ探し」はどうなったかというと、なかなかしっくりくるブログがなくて読者になるまでに至らなかった。音楽以外のジャンルで探した方が見つかるのかもしれない。「考える」だけの人も、「作る」だけの人も、「鑑賞する」だけの人もどうやらピンと来ない。そして、音楽系のブログを辿っていると、皆の音楽に対する愛を感じすぎて、知覚過敏になったようにズキズキと強いダメージを受けてしまう。音楽という世界が多様過ぎて、疎外感を覚えてしまう。単純にジャンルで見てもそうだ。クラシック系の人とも、ポップスやロックの人とも合わないし、ボカロもダメだし、好きなエレクトロニカでもダメ。「それだけ」がダメ。音楽という広大な宇宙の中で、中途半端に世界と世界の境界を彷徨う私は、マージナルマンとして永遠にひとりぼっちなのかもしれない。

充実した生活とは

最近、自分にとって充実した生活とはなんだろうと意識することが良くある。

おそらく次の二点が満たされていれば充実を感じることができるのだが、他の人はどうだろうか。

①やりたいことが充分にやれたか

やりたいことと言っても、様々な次元で、あるいは種類があるが、最近の自分は特にインプットに力を入れたいと思っている。本を何冊も購入したため、それを使って読書や勉強がしたい。そのため、読書か勉強が充分にやれたかが一つの指標となる。

充分とは何か

「これだけ長い時間できたのだから満足だ」という満足の仕方もあるが、私の場合は「この内容についてこれだけ考えることができた、知ることができたので満足だ」という内容の充実を求める傾向が強い。

しかし、例えば何か一つの話題について100ページぐらい書かれていて、読むのに苦労して10ページしか進まなかった時は、時間数を見て充実を感じることが可能かもしれない。

②バリエーション豊かな生活が送れたか

やりたいことを何か1つ充分にできたとしても、振り返った時に一日の中でそれしかしてないことに気づくと、寂しく思う自分がいる。やりたいことには様々な次元や種類があるため、一日の中ではそれを複数行うことが可能なはずだと考えるために生じる感情であろう。

例えば家事をやって、勉強をする。それだけで充実感が変わる。集中する時間とのんびりまったりした時間を過ごす。そういった対比効果的な要素を取り入れると簡単に充実感を味わうことができる。

 

以上が短期的に見た自分にとっての「充実した生活」だが、長期で見るとまた違う視点が生まれてしまうのが考えどころで、あまりに多岐に亘る趣味を抱えていると、自分が到達したい域が存在する場合、すべてにおいて到達できなくなる可能性が生まれてしまう。時間は限られている故、読みたい本が全部読めるとは限らない。おそらく全ての望みを叶えることは不可能だろう。その場合はこうなりたいという願望をレベルごとで区切って考えておいた方が良いかもしれない。最低限音楽心理学のこの辺りは網羅しておきたい、だとか、歴史哲学が何なのか説明できるぐらいにはなっておきたいだとか。それができたら次はこれを知りたいだとか、できるようになりたいだとか。

そしてそれらのやりたいことがレベルを上げるにつれて統合されていくモデルをぼんやり思い描いておけば、なんとなく気楽になれる(無理に統合する必要はないのだけれど)。

ちょっと話からずれてしまうが、勉強の面白いところは全く意識してなかった分野と分野があるときふっと繋がることがあるということだ。それを、意識的に繋げることも可能だが、私は偶然に任せていたいと考えている。勉強に関する話はまた後日詳しく書きたい。

 

ここまで書いておいて何だが、私には明確な目標があるわけではないし、その場が気持ち良ければオッケーな快楽主義が基本で、現状で満足している故に、何か向上心を持って行動しようという気が全くない。ただ、その日一日で満足にいく生活が送れないのなら、一生満足することはできないのではないか、と思う。向上心ゆえに満足しないという姿勢ならばまだ良いが(むしろそれは望ましい生活態度かもしれない)、充実感を得られないまま一生を過ごすのは喜ばしくないだろう。

 

今日一日がやりたいことをできずに終わってしまう前に、楽しい時間をつくって楽しく過ごしたい。私はそれだけのために生活している。

昔の文章…「神秘的、絶対的なものの消滅」


むかしむかし親は神でした。
むかしむかし音楽は神秘的なものでした。
何か得体の知れない絶対的なものだと畏れていました。
時を経て親も音楽も実態がつかめてきました。
知れば知るほどに抱いていたファンタジーは崩壊して、神はいなくなりました。

今ある神秘は数少なく、絶対的なものは死んでいきました。
「身近になった」といえば聞こえは良いでしょう。
でも抱いていたファンタジーが崩壊してしまったのです。
何よりそれが問題です。

ファンタジーを与えようとする立場の人間がファンタジーを殺してしまいました。
解体して昇華し、表現し、伝えようとします。
やり方は間違っていません。与える立場なら誰もが辿る道です。
でもこの仕組みが悲しい。
夢を夢のままで謳えた時代が羨ましい。

それでも尚ファンタジーそのものが消滅することはないです。
ないからこそ求める気持ちが皆あるからです。
そしてそんな気持ちが消えない限り、ファンタジーは消滅しません。
空を自由に飛びたい願いは飛行機によって、ハンググライダーによって叶えられたのでしょうか。
完全にはされていない筈です。飛行機やハンググライダーではまだまだ不自由だからです。
イメージの中ではもっと身軽に飛べている、そんな風に飛びたいという思いを抱えています。

飛ぶ機械をつくる者は飛ぶためのメカニズムを勉強します。
知るほどに飛ぶ機械は完成に近づいて実現できるのに、
知るほどに「自由に空を飛ぶ」幻想から遠く離れていきます。
ファンタジーが崩壊するんです。
それでも尚、人は夢を抱き続けるんです。

私はおおよその実態、現実が掴めてきた今でも
夢を見ていたいと思っています。
夢を見続け、そのファンタジーをつくろうとすることは愚かなことでしょうか。

人と話すということ2

他者は楽しく関係するための手段か、それともその人の存在ゆえに関係したくなる目的か

 

上手く飲み込めていないのだが、私は両方の側面があると思っている。先の

人と話すということ - 万華鏡の世界 では、主に手段的な側面を書いたが、後者を切り捨てた内容でないことはおそらく伝わると思っている。

 

唐突に今勉強している音楽の話を持ち出すが、音楽は純音楽的に聴かれるべきか否かという問題を考えているところで、純音楽的というのはいわゆる絶対音楽を聴く態度に代表されるものであり、「形式や性質において、非音楽的ないし音楽外的なものへのあらゆる意識的恣意的な関連を、少なくともその鑑賞において除外するもの」のように音楽を聴く態度である。音楽の種類における絶対という観念は一つの意図、一つの理想を示すものとして理解すべきであり、純音楽的な聴き方が音楽の最上の聴き方であると断定してしまうと、問題がいくらか生まれてしまうため、絶対音楽を支持しようという気はないが、絶対音楽絶対音楽的に聴かれるべきであることは明白であり、その他の音楽においても絶対音楽的な鑑賞の姿勢を捨て去るべきでないという考えに至っている。

ただ注意したいのは、一般には純音楽的な聴き方をするケースの方が少ないのと、ロマン主義の行き過ぎな立場は退けるべきであるとしても、音楽の感情的な力は認められるべきであるという点である。つまり音楽を単なる数と見做すことも、感情を表現したものであると考えてしまうこともどちらか一方では誤りに違いない。

 

他者は手段なのか目的なのかという問いに関しても、同様のことが言えるのではないかと考えた。この問題の場合、手段と目的は不可分な気がするのだ。私の立場としては顕在化した意識としては手段であることが多いかもしれないが、それは潜在的に目的があってのことで、目的なくして手段を講ずるわけではないのだろうという推測ができる。

私の周囲にいる人間はいつだって魅力的で、私はその魅力に魅了されて関係する機会を窺っているし、自分や相手が楽しめる瞬間を積極的に作りたいと考えている。自分が楽しむということは相手を楽しませることにも繋がるし、人と話すということは、自分が意識的に思っている以上に様々な作用が発生している行為だと思っている。

人と話すということ

私が頻繁に抱く欲求のひとつに人と話をしたくなるというものがある。具体的に誰と何を話したいかというようなものではなく、なんとなく誰かと、何か話をしたいといったものだ。

おそらくこれは、本当に話がしたいというより、口を使った快楽を欲しているのと、誰かと時間の共有をしたいという欲求であろう。

話ができれば誰でも良いのか、という問いについては、ツイッターのフォロワーさんだったら誰でも良いという感じであって、本当に無差別に誰でも良いという意味ではない。

ただ、問題は他人と関係する以上相手の時間を使わせてしまうという点にあり、内容によってはひどくつまらない無益なものに付き合わせてしまうのではないか、だとしたらそれは非常に申し訳ないことだなどと考える自分がいる。そういう思いもあって、本当はこの人と話をしてみたいといった願望も、自信のなさ故に相手から働きかけてくれるなら話がしたいといった遠慮がちな願望に留まっている。

 

人と話すことに意味はあるのか、という問いを投げかけられたことがある。意味は目的が存在しない以上発生し得ないものであって、私は基本的には会話に意味を見出さない。しかし、自分にとって楽しく有益であると感じることは多く、それは自分の思考の循環の中では見つけられない考え方を提供してくれる他者が多いからである。

勉強や読書もそうだが、自分が考えていなかったこと、持っていなかった視点を提供された時の快感は非常に大きくて何にも代えがたい。

また、話を聞く時にそのようなメリットがあるのと同時に、自分が口を動かすとドパミンが発生して心地良くなるといったことも会話の中では起こっている。それだけの心地良さがあって話さないという選択を取ることができようか、いやできまい。

 

ところが、自分には人と話をする上で大きな欠陥がある。いざ話ができる状態が整うと、ある意味そこで満足してしまい、何を話すかまで考えが及ばないといったことが良く起こる。状態を欲するが故に、その状態が整うと話したいという欲求が一気に薄れてしまうのだ。この場合、相手に話題を考えるように強いてしまうことが多々あり、毎度非常に申し訳なく思ってしまう。しかし、話がしたいという欲求が収まらず、全くもって身勝手な自分を抑えこむことすらできない。どのようにしたらその辺りが上手くいくようになるのか見当がつかない。それでも相手をしてくれる人が多くいることは非常にありがたく、また、不思議でならないのだ。「何故私の相手をしてくれるのか」話をしてくれる相手一人一人に問いかけたいものである。

 

ともかく、頻繁に起こるこの欲求に素直に応じて良いのか、少し抑えた方が良いのか最近の悩みどころである。振り返ってみれば自分の生活で会話をすることが少なすぎるから欲求として現れるのだろうということは分かっているが、人が関係してくる以上慎重になるべき事柄な気がしている。