万華鏡の世界

自分と自分と時々君

人と話すということ

私が頻繁に抱く欲求のひとつに人と話をしたくなるというものがある。具体的に誰と何を話したいかというようなものではなく、なんとなく誰かと、何か話をしたいといったものだ。

おそらくこれは、本当に話がしたいというより、口を使った快楽を欲しているのと、誰かと時間の共有をしたいという欲求であろう。

話ができれば誰でも良いのか、という問いについては、ツイッターのフォロワーさんだったら誰でも良いという感じであって、本当に無差別に誰でも良いという意味ではない。

ただ、問題は他人と関係する以上相手の時間を使わせてしまうという点にあり、内容によってはひどくつまらない無益なものに付き合わせてしまうのではないか、だとしたらそれは非常に申し訳ないことだなどと考える自分がいる。そういう思いもあって、本当はこの人と話をしてみたいといった願望も、自信のなさ故に相手から働きかけてくれるなら話がしたいといった遠慮がちな願望に留まっている。

 

人と話すことに意味はあるのか、という問いを投げかけられたことがある。意味は目的が存在しない以上発生し得ないものであって、私は基本的には会話に意味を見出さない。しかし、自分にとって楽しく有益であると感じることは多く、それは自分の思考の循環の中では見つけられない考え方を提供してくれる他者が多いからである。

勉強や読書もそうだが、自分が考えていなかったこと、持っていなかった視点を提供された時の快感は非常に大きくて何にも代えがたい。

また、話を聞く時にそのようなメリットがあるのと同時に、自分が口を動かすとドパミンが発生して心地良くなるといったことも会話の中では起こっている。それだけの心地良さがあって話さないという選択を取ることができようか、いやできまい。

 

ところが、自分には人と話をする上で大きな欠陥がある。いざ話ができる状態が整うと、ある意味そこで満足してしまい、何を話すかまで考えが及ばないといったことが良く起こる。状態を欲するが故に、その状態が整うと話したいという欲求が一気に薄れてしまうのだ。この場合、相手に話題を考えるように強いてしまうことが多々あり、毎度非常に申し訳なく思ってしまう。しかし、話がしたいという欲求が収まらず、全くもって身勝手な自分を抑えこむことすらできない。どのようにしたらその辺りが上手くいくようになるのか見当がつかない。それでも相手をしてくれる人が多くいることは非常にありがたく、また、不思議でならないのだ。「何故私の相手をしてくれるのか」話をしてくれる相手一人一人に問いかけたいものである。

 

ともかく、頻繁に起こるこの欲求に素直に応じて良いのか、少し抑えた方が良いのか最近の悩みどころである。振り返ってみれば自分の生活で会話をすることが少なすぎるから欲求として現れるのだろうということは分かっているが、人が関係してくる以上慎重になるべき事柄な気がしている。