万華鏡の世界

自分と自分と時々君

音楽は何かの役に立つのか

「◯◯は何の役に立つ?」という話、結構各方面で繰り広げられているし、私があえて書くことでもないような気がするのだけど、音楽をやる立場としては無視できないことであるため、書いてみようかと思う。始めに述べておくが、私は「役に立つ」という言葉が好きではない。それは、芸術や勉強は「役に立つ」からやるものではないからである。後にも記述するが、「役に立つ」や「価値」という言葉はビジネスや物質的なこと、つまり即物的なものに普通は使われる言葉であって、芸術や教養のようなものには適用されないのが一般的である。それを踏まえた上で、あえて使ってみたい、考えてみたいと思ったのだ。即物的でないものには本当に価値がないのか、役に立たないのか。それを今一度見つめてみようと思う。

音楽は食べ物のように「生きるために必ず要るものではない」からお腹が空いて今にも死にそうな人に与えても何ら役には立たない。お腹が空いている例でかろうじて役に立つのは、まだ多少の余裕があって何時間も耐えなければならない時、音楽で気を紛らせることができるという程度であろう。しかし、緊急性はないにせよ「生きるために必ず要るものではない」というのは本当だろうか。

まず、「生きる」とはどういうことかという定義によって音楽が生に必要かどうかが変わってくるのではないかと思う。単に呼吸をしていることが生きることになるのなら、極端な話、鎖に繋がれて飼われていても良いわけであるが、そんなのは人間的じゃない、とすぐに否定されるだろう。そのため生存権のように「健康で文化的な最低限度の生活」を送ることが人として生きるということではないか、と考える。つまり、人として生きるということにはある程度文化的な生活であるということが必要であるわけだ。

「必要」という言葉が使われるのは、即物的なものに対してであることが多いように思う。つまり、物質的なことや金銭的なことが優先される。食べ物であったり、仕事であったり。即物的な見方をした時は芸術というものには価値がないということになる。これも本当かどうなのか怪しい。それを認めてしまうと、先ほど言った人として生きるということは、文化的な生活が必要であるという言い方が適切ではなかったということになる。

よく理系学部や法経済学部は「社会の役に立つ(つまりお金になる)」とされ、対して文学部や芸術学部は社会の役に立たない(お金にならない)と言われるが、これも即物的見方によるものであって、それがすべてではないのではないかと私は思うわけだ。音楽に限っていえば、ポピュラー音楽をやる学科に関しては商業音楽と通じているため、即物的に「役に立つ」ということができる。

では、その他の音楽を含む芸術をやることの意義とは何なのか。即物的ではない必要なものとは何なのか。それについて考えてみたい。

即物的でないものと即物的なものとの違いは「お金になるかならないか」が一つの指標であるというのがぼんやり見えてきたように思う。ではなぜ、お金にならない大事なものが存在するのか。それはひとつには芸術や教養の経験には形がない、形にしにくいという性質があるからではないかと考える。お金は、その金額を払えば誰でも平等に手に入れることができるというものに対してのみ有効である。だから物や誰でも経験できることに対しては値がつく。それは芸術作品でもそうで、本やCDには値段がついている。そのものの価値の上下はあるにせよ、形あるものには値がつけられるという意味では、芸術作品も他の物と何ら差がない。混乱を招く言い方をするが、そのような意味では芸術にも価値があり、「役に立つ」ということが間接的には言えてしまう。

しかし、私が考えたいのはそのような脈絡での話ではない。小説の本は400円台と安く、音楽のコンサートは1万、2万とかかるが、「価値あるものほど高い」などという話をしたいわけではない。(かといって需要と供給の話がしたいわけでもない。)400円の小説を読むことがその人にとってそのまま400円の価値にならないのは、芸術が即物的な価値に留まらないことを示しているのではないだろうか。さらに、書くことに至っては紙とペンがあればできてしまうが、その価値は材料費とイコールでは結べない。これが、即物的ではないものの価値にあたるわけだが、それを人らしく生きるために必要であるというにはまだまだ足りない。

芸術が何の役に立つのかという問いには簡単な答えとして、「お金にはならないけど、人を豊かにするものだから絶対に必要なんだ」という話を耳にタコができるほど聞いてきた。ここでやはり重要になってくるのは「人を豊かにするものがそんなに大事なのか。そもそも人を豊かにするとは一体何なのか」ということである。

人の進化論について論じるとまたややこしくなるので進退という概念は用いずに発展という概念でみていきたい。人を豊かにするということは、人の心を豊かにするという意で、それは何か不足していたものが満ち足りたり、多様化したりした時に用いられる言葉であると推測する。例えば花が咲いているのを眺めている。単純に「ピンクの花だ、綺麗だな」とまず思う。良く見ていくと花弁の数や、花粉があることや、茎のみずみずしさを見出すことができる。「綺麗だな」と思っていたものがより多様に見える。ここですでにこの人は認知できるものが増えて「心が豊か」になったといえる。人の情感を喚起したり、より鮮明にしたり、物事が人に与える影響というのは測り知れない。するとここで本が登場する。花がどのようにして生きているのかは植物の本を見ると分かる。自分では思いつかないような花の捉え方は小説によって見えてくることがある。よく見るだけでも人の心は豊かになるが、それとはまた違った方向から本によって心が刺激される。そのようなことが、(この場合本が)「人を豊かにする」ということなのだと考える。発展ということばを用いるとすれば、その意は「より◯◯になる」ということである。より捉え方が増えたり、多様になったり。そのようなことは、人が生を謳歌する上で必要である。というより、生きているとそうならざるを得ない、つまり、生きるということは発展するということであると言っても差し支えがないのだ。学問や芸術が生を肯定する活動とみなされるのは、学問や芸術が発展してきたという歴史があり、発展性を有しているということが明白であるからである。心が豊かになることが大事なことであるとされるのは、生きることが人にとって大事であるからということに他ならない。生きることがもし、人にとって大事なことではないのだとしたら、確かに学問や芸術も大事なものではないし、大事なことが何もないような感じがしてしまうだろう。しかし、死に重きを置く価値観を持っていたとしても、我々が今現在生きていることに何の価値も生まれないというのは本当だろうか。死に価値があり、生に価値がないといえるのは死んだ後の自分であり、生きているうちの自分ではないはずである。そうなる以上、消極的に見ても生きているうちは生きることが重要であるといえるのではないだろうか。発展とは、生のようにすでに進行している何かであるのかもしれない。生きていることの価値の有無を議論すると、もうその段階で発展性が生まれている、発展がそこにある、その意味でそれは生きていることの価値をすでに認めてしまっていることになる。生きている者が生きていることについて考えるのと同じく、すでに進行しているものなのだから、否定するのは困難に近いという状態になる。だが、私がしたいのはそんな消極的な見方ではない。ここに至るまでに必要な過程ではあったが、これを主軸だと思われては困る。ただ、即物的ではない必要なものが存在するということはこの段落でなんとなく掴んでもらえたのではないかと思う。発展性を有したものとお金になるかならないかという指標は交わるものではないのだ。

さて、人間と同じように人のつくったモノ(学問や芸術)に発展する性質があるのは認めるし、それが人にとって重要であることも分かってはきたが、「音楽は何かの役に立つのか」ということについて説明が十分にはできていないように思う。言い換えれば、音楽の性質がいかに人の心の発展に繋がるのかということについてまだまだ話せていない。というわけで、音楽にはどのような性質があるのかをここで考えてみる。

 

とここで一旦ストップです。続きはまた後日更新します。

文章についての走り書き

起承転結などの展開に慣れすぎている話

 

普段読む多くの文章がロジカルなだけに、そうでない文章に触れた時の異物感がものすごい。小説に関しては「そういうものだ」という認識があるからまだ良いが、いかにもまとまってそうな記事を読んだときに、ロジカルでないと「アレ」となることがしばしばある。それは、女性の文章に多い気がするが、すべての女性の文章が読めないというわけではない。とりわけ苦手なのが、ツイッター等のネットで持て囃されている文章。キャッチコピーのようなコテコテとした文章が1つの記事の中でも多数あり、その度に軽い笑いを誘うようなものが多いように見受けられる。私は格言的な文章というものがそもそも苦手で、どこに「いいね」をしたら良いか分からない。結局何も言っていないのでは、という気が起こってしまう。人気のある文章を楽しめるようになりたいとはあまり思わないが、もっと広い世界を私は欲している、つまりさまざまな文章を楽しめる心を得たいわけで、そういった意味ではロジカルな文章だけに慣れ親しんでいる今の状態は危機的であると言わざるを得ない。

ふとここで矛盾に遭遇する。普段の私は結果より過程に重きを置いているのに、文章に結果を求めすぎてしまうのはどうにも滑稽ではないだろうか。いや、簡単にそう言い切ってしまうと、結果以外を大事にしているなと感じる時がいくつもあるのをすぐに想起できてしまうから、すべての文章に結果のみを求めているわけではないのだろうけれど、少なくとも求めてしまう文章の例を2つ知っている。1つは知人の哲学的な話と、もう1つが先ほどのSNSで持て囃される文章。どちらも共通するのは、自分にとって「真意が見えない」ということなのだと思う。日常からかけ離れているように見える知人の哲学的な話の文章を見た時に、この主義主張をすることによって筆者は一体どんな目的が達成されるのだろうかという疑問が湧く。そういうものではないのかもしれないけど、そのようなことが書いてないか期待をしてしまうのだ。だから、読んでも腑に落ちない感じになってしまう。一方SNSで持て囃される文章というものは、人を引き付ける要素を多く含んでいることに特徴があり、私が読む限りでは人の注意が引ければ目的が達成されている感じがする。つまり内容らしき内容がそこにはない。この2つの例を強引にまとめあげてしまうと、各方面から矢が飛んできそうだが、あえてまとめてみると、ディテールの重要性というものが浮かび上がってくるように思う。私でも納得して読めるような小説にもその側面があるし、そのようにロジカルでない文章というのはそのディテールが文章の世界のすべてなのではないかという気にさえなる。

ディテールの重要性は音楽にも通じる。感情云々の問題を意識する時に形式について考えが及ぶのは想像に易いが、その形式(細部を含む)こそが音楽の内容、つまり音楽の自己目的的な性質があることに関連して考えられそうではないか。ディテールが重要であることと、音楽の自己目的性は単純に一元化できるものではないにしろ、そこにある「細やかな表現」を内容として意識づけできるという点では非常に似ている。物語の展開や主題をその作品のすべてであると捉えるのは非常に危険であるし、音楽を感情的な側面ばかりを捉えて悦楽的に鑑賞するのもあまり良いとは言えない。内容とは、細部に渡ったそれそのものも含まれるのだから、そういう意味では結果に当たるものが何であるかということはさほど重要ではない場合もある。(当然、「結果」もその作品の内容であるから不要だとはいえないが)

ここまで書いてみて、私は文章を読むときに結論や発話の目的を求めすぎているあまりに細部を見落としがちなのかもしれないという気づきを得られたし、良く分からない苛立ちも抑えられたので非常に満足している。他人にとって価値ある話ではないかもしれないけれども、一応ブログに残しておこうと思う。

「好き」が「嫌い」になる時、「好き」がなくなる時

とても印象的な場面に出会したのでふんわりと書き留めておきたい。

最近「好き」から「嫌い(憎しみ)」へ変貌する様を目の当たりにした。

端的にいうと、私に好意を寄せていたと思われる人が私の言動によって私を憎むことになったという内容である。

相手が怒るだけのことをしたのは事実で、怒られて当たり前なのだが、その場合、怒るが関係を続ける人と、怒って関係を切る人というのが出てくると考えられる。今回は後者であった。この違いは好きが続くか、消えるかというシンプルな差であるに違いないが、なぜそんな違いが生まれるのだろうか。

「触れられそうだから好きなのか、好きだから触れたいのかという違い」

この違いが分かるだろうか。期待が先に来るのか、気持ちが先に来るのかという差であるが、期待が先に来る場合は、裏切られた時に相手を憎む傾向があるのではないかと考えた。

以前私は、アスクでこんなことを書いた。

愛と憎しみ、好きと嫌いが紙一重なのはどうしてでしょう | ask.fm/caleidoscopi0x

冗長的であまり良い回答ではないし、今となってはやや違うなという部分もあるが、関連しているため載せておく。

簡単にいうと相手を都合良く捉えているから、そのイメージと実際が異なった時に失望して憎むことになるのではないだろうか。今回のことは私という人を受容しきれなかった結果なのだろう。受容しきれなかったといえば、もうひとつの件でもそうだった。自分の勝手なイメージを押し付けてきて、勝手にそのイメージとの差に苦しんだ末、怒りをぶつけて縁を切ってきたという謎のイベントがあった。

どちらが悪いとかそういう話ではないのだけれど、アスクでも話しているように、憎しみを引き起こす場合の「好き」という感情は、おそらく私が思っている好きという感情とは違うということを明言しておきたい。

 

そして「好き」がなくなる瞬間も経験した。

何度か経験はあるが、今回は特に唐突だった。今まで使われてきたエネルギーが一気になくなった瞬間だった。きっとあまりに情熱的すぎたのだろうと思う。

なんとなく北風と太陽を思い描く時があったが、なくなった今、つまりそういうことなんだろうと思う。

 

どのようにでも捉えられる出来事ゆえに恣意的になっていることは否定できないが、私がなぜこう思いたいのかというと、今、守りたいものが手の中にあるからである。

「渡る、」

 ある時、程々に緊張していた女を迎えたのは、一人の若い青年であった。

 互いに適当な飲み物を注文した二人は、あまり居心地の良さそうでない椅子に腰を下ろした。女はその狭くて赤い部屋を見渡し、左手にある扉をちらちらと気にしながら青年を見据える。

 女には青年が眩しく見えた。実際、肌の白さが印象的な人であった。いや、外見的にも確かに眩しかったのだが、青年のもつ雰囲気というものは独特で、内面から滲み出てくる何かが初々しさを醸し出していた。そして、青年期特有の押し殺しているであろう何かと混ざり合い、それらが快活さとして表面に浮上している感じがして女には非常に眩しく見えたのだ。それは、昔女も持っていたはずのもので、それを目の当たりにして実感することで、漸く女はその喪失を知ることとなった。

 女は続けて観察をする。良く目を合わせる人だった。根が誠実なんだろうか。その青年は、目元や口元の造形や表情筋により構成される表情がなんとなくまったりとしていて、周囲の空気と溶け込んでいた。癒やしである。この感じは猫と一緒にいる感じと似ているなと女は感じる。ただ、時折笑い方が鼻にかけて笑うような、そんな風に見えてしまう瞬間があった。女は「きっとこの人はそういう部分で誤解をされてきたのかもしれないな」とやや思ったが、「いや、実際相手を見下すことも人だからあるのだろうな、しかし顔にそれが出てしまうのは辛いだろうな」などと考える。「ゆえにそれを愛嬌と見做すこともできるかもしれないが、そこまで相手のことを掴む人も稀であろう」と意味不明な自画自賛を挟みながら女の分析は一旦終了した。逆接的思考を反復する癖のある女は、そうやって観察することに夢中になりすぎて、青年の話を聞いていないこともあった。耳が若干遠いせいもある。

 そうして二人は適当に話をしていた。自分から語ることの少ない女は、客観的には青年を困らせてしまっていた。話がやや堅い。しかし、堅さがあるものの、頭の良い彼はそれを自在に広げてゆき、あたかも堅くないような話しぶりで堅い話をしていた。何を話していたのかというと、「人と何を話すのか」という陳腐な話である。それから、互いのことを少しずつ話すことができるようになった。女が記憶していたのは、青年の彼女がデザイン関係の勉強をしているという話であった。芸術に強い関心を示す女は、デザインと芸術の境界がどこにあるのかを普段から考えていたため、「デザインって何?芸術とどう違うの?」と質問をした。意図的に専門的な話になることを避けていた彼は、雑な答え方をしたのだろうか。あるいは、雰囲気に飲まれたか、理解が及ばなかったか、そこはなぜか女の記憶に残ることはなかった。

 互いに恋人がいる状況で二人で話をするというのは実は意外に少ないことで、その新鮮な関係に女は満足していたのと同時に、このような場合、恋人の話を積極的にしたがるのは適切なのか、という変な問題について考えていた。経験上は、男性は異性といる時、他の異性の話をするのを避けたがるという傾向を知っていたのだけど、これはその男が女に恋愛感情を多少抱いているのが前提にあるため、今回のケースには当てはまらない。友好的な意味でだが、好意を抱いている人が好む相手なのだから、聞きたくなって当然であると女は考えていた。もっと話を聞き出したかったが、青年はあまり恋人の話はしたがらなかった。訊かれれば答えるといったスタンスだろうか、なるほど、では私も同じように振る舞おうとその場では「デザインの勉強をしている」という話だけをした形となった。まさか今後もそのようなスタンスが貫かれるとは、さすがに二人は考えていなかっただろう。

 そうやって長時間に渡って話をした後、店を出た。歩く時、二人の間隔はかなり離れていて時々はぐれそうにもなった。女は店の表に書かれていたイタリア語の意味をうんうん思い出そうとしたが出てこないので、もやもやしていた。ペースもやや遅くのろのろと歩いている。「存在感がないね」と青年は遠慮のない言葉を言い、女はその言葉にやや動揺したが、すぐに何事もなかったかのように歩いた。

 

 それから何度か会った時か、もしかしたら二回目に会った時だったかもしれない。予想外に遅くなってしまったので、二人は夕食を食べることにした。青年が飲みたいと言ったので、女は了承し、てきとうな店に入った。そこは半個室の黒い布で仕切られた空間であった。黒い空間というものは、それだけで何かに飲まれたような感覚になってしまう。二人は飲む前から雰囲気に酔っていたのかもしれない。

 女はまた話題に少し困った。でも、お酒というのは不思議なものでなし崩し的に話は進んでいく。便利である。氷の入ったグラスを揺らしながら、女は始め青年が失恋したばかりであるのを少し気にかけていた。いつものように明るく振る舞う青年を見てその心境を窺う。しかし、お酒が回ってくるとその配慮も薄らいでいく。遠慮もなくその場を楽しい、と女は思う。女は快楽主義であった。

 互いに高揚感が増していった。猫のように癒やしてくる青年である、女の警戒心はとうに失せていた。いつもなら酔わない女がまるで自宅で飲んでいる時のように安心しきっている。状況が事の次第を既に予期しているようだった。

「気持ち良くなってきちゃった」

 唐突に女は言った。すると、青年はそっと手を差し出した。何かしようと手を伸ばしてきたのではなく、握手をするかのように伸ばしてきたのだ。何かに縋りたくなっていた女は、握手をした。女に衝撃が走った。全身がビクビクする。青年は驚いて、手を一旦離した。そして再びゆっくりと手を握る。手を握るだけに留まらなくなった青年は掌を指で擦る。さらに女は打ち震えた。目を開いているのが辛いのか女は目を細める。上気した女の元へ青年はそっと近づいた。

 ほんの数秒のことだった。女は唇を奪われた。頭が真っ白になった。女は青年を拒むどころか積極的に受け容れる。あまりの震え方に青年は驚く。悦びだけがただそこにはあって、それ以外のものが吹き飛んだ瞬間だった。ねっとりとしたキスをビクビクした身体で女は受け止める。両者の舌が、唾液が絡み合い、意識が、そして理性が遠のいていく。続けるほどに胸がキュッと締め付けられるような感覚を女は覚える。青年の存在が女の心に広く亘っていく。心が青年で満たされていくのを感じとった女は再び全身を震わせた。

 しばらくすると、二人はいつの間にか店を出ていた。「何もなかったのでは」という気さえ起こるほど青年は女から見て自然だった。しかし、どこへ向かって歩いているかいまひとつ掴めないまま歩いていた。人混みに流されることなく、はぐれることなく歩いていることに少し驚きながら女は青年と歩く。まったりしていた。ごく自然な流れで青年は女を誘った。女は躊躇することなく了承する。魔法はかかったまま、解けることがなかった。 

 そうして二人は夜の街に消えていった。

 

 二人はカフェにいた。女はアイスコーヒーを不味そうに飲んでいた。このアイスコーヒーは、紙パックのコーヒーを氷の入ったグラスに注いだだけであろう。ホットコーヒーだったらまだマシだったかもしれない、と一口目で後悔した。水滴がグラスにたくさんついており、グラスを持つとテーブルにポタポタと垂れる。一方青年はあまり表情に出すことなく紅茶を飲んでいた。味の評価を言葉にしないということは、取り立てて美味くはないのだろうな、と女は推察する。

思い返せば狡猾な人ね、とやや思う。思いながら相手を見つめていた。自分の性質を棚に上げて相手を貶めていることに女は気づかない。見つめすぎたのか、瞳孔が揺らいだのを見られたのか、青年に気づかれる。

「何?」

「ん、なんでもない」

「本当に?」

「ちょっと昔のことを思い返していただけ」

「……ふうん」

 女は何かを思うと、それを毎回相手に気が付かせるのだが、肝心の何を思ったのかを伝えない。いやさすがに突然「狡猾だよね」とは言えないだろう、と女は思ったのだが、青年だったら口にしているのだろうなということに気づく。

 静かに青年が語るのを女は時折相槌を入れながら聞いていた。生活の話になると、途端に色濃く「らしさ」を感じてしまう。青年の人生は目まぐるしいものがあった。飽き性のせいなのか、運命なのかは知らないけれど、変化に富んだ生活である。出会ったばかりの頃、青年の活動歴を聞いた女は、世の中を巧みに渡ってきた印象を受けたものだったが、今では少し違うように感じていた。そうならざるを得なかったからそうしてきたのではないかと思ったのだ。一方、女の生活は代わり映えのしない穏やかな生活を送っていた。「自分」とはすなわち習慣である。生活が人を形成している。そう言った意味では、外形が全く異なる二人だった。そんな二人が今同じ空間にいるということに気づいた女は妙なことだわ、と笑みをこぼす。

「何?」

「なんでもない」

「なんでもないのに笑うの」

「うーん、思い出し笑いってやつ」

「何を思い出してたの」

「なんだろう」

「……」

 二人はカフェから出た。時雨が渡ったらしい。雲間から太陽の光が差し込むと、濡れたアスファルトがキラキラと輝いていた。歩きながら女は青年の手をちらと見る。青年はそれに気づくが、何もしない。動じない青年を前に軽くショックを受けつつ、躊躇いがちに相手の指に指を絡めた。一気に熱くなる。青年は女の体温の上昇を感じ取る。目を見て、伝わったことが分かると女は更に熱くなった。手を繋ぐと、さすがにはぐれない。ぴったりとくっついて、揃わなかった足並みが徐々に合っていく。

 数メートル先の交差点を渡ると目的地だった。ゆくあてのない小鳥がくるくると旋回しているのを二人は見上げた。

「忘れ物した」

 女はゴソゴソとバッグの中を探してみたが、探し物は見つからなかった。

「戻る?」

「……。大したものじゃないから戻らなくて良い」

「そっか」

 再び手を繋いだ二人は、タイミング良く信号が青になった交差点を渡った。

音痴の話

フォロワーさんに音楽や音に関して何か疑問に思っていることはないか尋ねたところ、「音感のある人ない人、音痴な人とそうでない人ってのは、どういう風に違っていると考えられているんでしょう?」という問いをいただいたのでお返事を書きたいと思います。音痴な人とそうでない人の話をすると自然と音感のあるなしに関わってくるので、今回は「音痴」について詳しく話をしたいと思います。

 

私達が音痴な人をイメージする時、具体的にどのような人のことを想像するだろうか。おそらくカラオケで音程が取れていない人をイメージしてもらえれば分かりやすいかと思う。そのイメージで統一したい。では具体的に「音程が取れていない」とはどういうことなのか見ていきたい。

音程が外れてしまう原因は二つある。発声の問題と聴音の問題である。発声が原因で音程が外れる人は、声帯などの発声を司る器官の筋肉運動の訓練不足によって音符通りのピッチやリズムに合わせた声の強弱の制御がうまくできていない。つまり、訓練さえすれば発声による音痴は改善することができる。

ではもう一つの原因の場合はどうであろうか。人間は声を出す時、耳で声の強弱や高低は正しいか、伴奏に合っているか、意思通りに音声器官が働いているかなどを常にチェックしている。このフィードバックが何らかの原因で正しく動かないと制御困難に陥り、もはや正しい音程では歌えなくなってしまう。器質的な問題の場合は音痴を解決することができないが、聴音音痴の多くは歌うときに声を出すことに一生懸命になるあまり、自分の声の高さがどのぐらいか、リズム・伴奏に合っているかなどに注意が散漫になってしまっていることが原因であろう。自由気ままに歌っているだけでは、いつまでたっても歌の上達は期待できない。

つまり音痴な人は、訓練不足と注意不足によってそうなっていると考えられる。音感というものは、西洋音楽を聴いた時に、美しさを感じられれば備わっているとされているので、通常音感が全くないということは考えにくい。

 

以下まとめ。

「音感のある人とない人の違い」…西洋音楽を美しいと感じられるか否かという点、もっと根本的なところでいうと、協和音と不協和音の認知ができるか否かという点。

 

「音痴な人とそうでない人の違い」…音痴には発声音痴と聴音音痴がある。音痴ではない人の場合、発声の訓練ができており、聴音もきちんとできているが、音痴の人の場合はどちらかに問題があるか、あるいは両方に問題があるとされている。器質的な原因の場合は改善の見込みがあまりないが、多くは改善できると考えられる。

 

質問にうまく答えきれてない気がしますが、私の持っている知識はこんな感じです。

 

参考文献

『音のなんでも小事典』日本音響学会、2005年、講談社

見知らぬ彼女

彼を通して見える彼女は非常に可愛気があって透き通っていた。

まっすぐに彼を見つめて、信じて疑わない。

しかし、彼女には見せない姿が彼にはあった。

病気だ、と私は思った。なんとか治したかった。

まだ見ぬ、そしてこれからも絶対に会えぬ彼女のためにも。

ところが、病は私を発端としていた。

どうしようもなかった。せめて私が彼女だったら……。

ただ苦しかった。彼の前で何度涙を流しただろう。

どうして自分だけ黒い感情を抱かなければならないのだろう。

何故こんな目に遭うのか分からない。彼を憎みさえした。

私はいつも汚れていた。クタクタに疲弊していた。

そこから解放されてやっと自分になれた。

そして時が経ち、そんなことを考える自分さえいなくなり、

私は本当にくすんでしまった。

嫉妬の末

彼女は私の日常の端っこにいた。そっと彼を見守っている。

私は彼女が彼に好意を寄せていたことを知っている。彼女も私のことを知っていた。

彼女が彼と話をする時、ほんの僅かに見える切なさを私はチクリと勝手に感じる。

昔はチクリどころではなかった。嫌悪感もあったが、今ではもう可愛いものとなった。

彼女は未だに痛みを感じているのだろうか。

見えない溝に声を発し続けているのだろうか。それとも。

私は彼女の、その薄紅色の半透明な羽根を踏み躙っている感覚を覚える。

どのように考えても彼女にとって私は都合の悪い人物である。

しかし、彼女は私のことを好きだと言ってくれる。

そのことがさらに私を悩ませ、苦しめるようであった。

明らかに私は彼女を間接的に虐めていることになるのだけれど、彼女はいつものように笑うだけであった。

今日もまた日常の端っこにいる彼女を感じている。

チクリと刺す半透明の痛みが、喜びと切なさと醜さを私に呼び起こす。