万華鏡の世界

自分と自分と時々君

「好き」が「嫌い」になる時、「好き」がなくなる時

とても印象的な場面に出会したのでふんわりと書き留めておきたい。

最近「好き」から「嫌い(憎しみ)」へ変貌する様を目の当たりにした。

端的にいうと、私に好意を寄せていたと思われる人が私の言動によって私を憎むことになったという内容である。

相手が怒るだけのことをしたのは事実で、怒られて当たり前なのだが、その場合、怒るが関係を続ける人と、怒って関係を切る人というのが出てくると考えられる。今回は後者であった。この違いは好きが続くか、消えるかというシンプルな差であるに違いないが、なぜそんな違いが生まれるのだろうか。

「触れられそうだから好きなのか、好きだから触れたいのかという違い」

この違いが分かるだろうか。期待が先に来るのか、気持ちが先に来るのかという差であるが、期待が先に来る場合は、裏切られた時に相手を憎む傾向があるのではないかと考えた。

以前私は、アスクでこんなことを書いた。

愛と憎しみ、好きと嫌いが紙一重なのはどうしてでしょう | ask.fm/caleidoscopi0x

冗長的であまり良い回答ではないし、今となってはやや違うなという部分もあるが、関連しているため載せておく。

簡単にいうと相手を都合良く捉えているから、そのイメージと実際が異なった時に失望して憎むことになるのではないだろうか。今回のことは私という人を受容しきれなかった結果なのだろう。受容しきれなかったといえば、もうひとつの件でもそうだった。自分の勝手なイメージを押し付けてきて、勝手にそのイメージとの差に苦しんだ末、怒りをぶつけて縁を切ってきたという謎のイベントがあった。

どちらが悪いとかそういう話ではないのだけれど、アスクでも話しているように、憎しみを引き起こす場合の「好き」という感情は、おそらく私が思っている好きという感情とは違うということを明言しておきたい。

 

そして「好き」がなくなる瞬間も経験した。

何度か経験はあるが、今回は特に唐突だった。今まで使われてきたエネルギーが一気になくなった瞬間だった。きっとあまりに情熱的すぎたのだろうと思う。

なんとなく北風と太陽を思い描く時があったが、なくなった今、つまりそういうことなんだろうと思う。

 

どのようにでも捉えられる出来事ゆえに恣意的になっていることは否定できないが、私がなぜこう思いたいのかというと、今、守りたいものが手の中にあるからである。