万華鏡の世界

自分と自分と時々君

川上弘美『センセイの鞄』を読んだ

 

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

 

 

小説全般を読んでまず気にかかるのは、時間の流れ方というものがひとつあるように思う。解説と同じようなことを話すことになるので、今回はそこにフォーカスを当てることはしないが、保坂和志を読んだ時妙に感じていたのも時間の流れ方であった。今回の川上弘美の文章もおおまかには順序良く流れてはいるものの、細かいところで前後したり、入り組んでいたりしており、フックのようなものが至るところに仕掛けられている。そんな印象である。それは時間の流れ方だけでなく、恋愛の話という観点からも同様のことがいえる。若い男女の物語でもなければ、関係性ががらりと変わるようなドラマもない。そういった意味ではよくある恋愛小説とは異なっているし、一癖も二癖もある出来になっている。

恋愛の話と言い切って良いのかも分からないような部分もあるが、仮に恋愛小説だとすると、やはりどこかで性的なものを感じざるを得ないのだが、終盤の終盤になるまで二人の距離感があまり変わらないところから、ひどくテンポの遅いセックスでも見ているような感覚になった。セックスといっても生々しさはさほどなく、綺麗な形となってそれが現れているような感じである。序盤を読んでいる時、あまりのテンポの緩さに半ば眠くて仕方なかったのだけれども、それはつまらないからという意味ではなく、幸福な時間が流れていたからリラックスしてそうなったのだと思う。

「切ない」という感覚は誰にでも起こりうるのかもしれない。あらすじにも書かれてあったし、レビューもいくらか拝見して、そういった語が多く寄せられていた。しかし、私が普段思っている切なさと、『センセイの鞄』に登場する切なさは少し色が違うように思えた。なぜなら、この二人は始めから終わりまで共にいるのである。関係が引き裂かれるわけではない(最後にはなくなってしまうけれど)。ツキコさん目線で書かれているから、ツキコさんがセンセイを追いかけているように見えることがあるのだけれど、センセイもツキコさんに惹かれているのが断片的ながら読み取れる。両想いというものは、片想いし合っている状態なのだ。それは思いが一方的であるという切なさを孕んでいても実に幸せなことである。ゆえにここに登場する切なさには明るい光が多く差し込んでいる。幸福な切なさである。

心の動きを微細に描こうとするとこういった感じになるのだろうか。風景や、動作の描写はあまり多くない。短編小説の集まりを読んでいるような感覚にもややなったのだけれど、ひとつひとつがきちんと繋がっていて、微妙に変わっていくツキコさんの心や変化していくセンセイの動きが胸を高鳴らせてくれる。そしてやはりちゃんと長編の小説になっているところになぜか私は甚く惹かれたのである。

この本は人からいただいたものなのだけれど、よく選んでくれたなあと感心した。なぜなら、私は恋愛小説に苦手意識を抱くことが少なくないからである。読めるものより、読めないものの方が多いのだ。でも、私は一部の恋愛小説や映画をひどく好んでいる。本をくれた主がそれを分かってくれた気がしたのだ。ただの偶然なのかもしれないけれど、そんなふうに思える。きちんと読めるものを贈ってくれたし、この本について興味深い話もしてくれた。ゆえに、私にとって特別な読書体験となった。『センセイの鞄』は、これからも大事にしていきたい本である。