万華鏡の世界

自分と自分と時々君

私と私

苦しみの根源を探っていたら、自分のある思いに気がついた。私は調子によって考え方を180度くらい変えることがしょっちゅうある。他人がどうかやそれが普通なのかどうかはさておき、私は躁のときの自分と鬱のときの自分といった、まるで違うその二者を二者とも愛したいという思いがあることに気づいた。そして、すべての自分とすべての時間をなるべく均一に慈しみたいのだと分かった。苦しみが生まれるのは、愛したいのに愛せない時があったり、不均一だったりするからだ。

例えば仕事が辛いとき、仕事そのものに対して嫌悪するということは私の場合実はあまりなくて、仕事を楽しんでいない自分が嫌で辛くなるということがあり、これが苦痛の正体ではないかと思った。仕事を嫌なものだと心で決めてしまうことは可能だし、そうしている人は少なからずいるだろう。でも、私には「諦めたくない」という思いがある。だから、楽しめない時があると、仕事に対してではなく、自分に対して苦痛を感じてしまう。

躁のときの自分と鬱のときの自分は、全く異なる考え方をする二者だが、理性では躁のときの自分を推奨している節があり、鬱モードの思考になると、肯定しないという態度を自分自身に対してとることになる。これは、認知行動療法的には正しいことで、極端な思考を避けたり、歪んだ認知を歪んでいると捉えたりすることは全くもって悪いことではないが、問題は偏った思考をする自分が理性的な自分によって間接的に拒絶されてしまうところにある。つまり鬱の自分は自分から愛されていないと感じる。となると、鬱の自分が登場した時、鬱であるが故に自分から愛されずに孤独になってしまうのだ。さて、どうにかして鬱の自分を愛することができないだろうか。鬱のときの思考を肯定できなくとも受容ぐらいはしてあげても良いのではなかろうか。私のセルフ認知行動療法は次の段階を待っている状態なのかもしれない。認知の歪みを見つけ、自覚し、自分を追い詰めない解釈を考え出してそれを採用するといったことは、確かに思考の拗れは改善されるが、非常に理性的であり論理的な態度である。ゆえに感情的な自分が置き去りにされてしまい、今のような乖離を生んでしまうことがある。もっと良いやり方があるような気がする。

とにかく鬱モードのときの自分を残念な自分だと自分で思わないようにすることがまず重要だ。たとえそれが進捗状況を滞らせるようなことがあっても、それを跳ね除けられるぐらいの肯定感があれば、鬱の私は安心して鬱でいられる。鬱状態の自分がその力を自力で出すのは厳しい。だから、躁のときの自分が力を貸してあげられれば理想的だろう。

鬱のときの良いところを伸ばしてあげるというのも良い線かもしれない。鬱のときの自分は認知の歪みがあるものの、躁の自分にはない明晰さがある。躁のときの自分が飛躍に飛躍を重ねる思考法を取るとしたら、鬱の時は持続的に物事を考えるのに向いている。ただ気力が湧かないせいで、結果的には何も進まないかもしれない。それでも鬱の時の自分は魅力的な文章を書ける可能性を秘めているし、それを言葉にするのは何も鬱の時でなくとも良いだろう。下準備をする期間だと思えば良いのだ。

正直、ここまで書いておいて言うのもなんだが、メタ的な視点で見ると、やはり理性優位であることを認めざるを得ず、鬱の自分というものは何れ殺されてしまうのだと思う。すべての自分を平等に愛するなんてことはできない。鬱で感情的な子どもっぽい自分というものは、やはり全面的に良い自分だとは思い難い。それでも、今ここにいることを完全に否定するのは違うし、その歪んだ考え方を安易に肯定してしまうのも違う。寛大な、限りなく無条件に近い愛が、ただただ鬱の自分を受容するという自分が必要なのだと思う。鬱の自分のために書いたこの文章が鬱の私の癒やしとなり、励みになったのは事実で、どんな時間や自分でも愛したいという思いを諦めずに済みそうなのが何より嬉しい。手と手を取り合って二人が笑っていられたら、私はこの上なく幸福に違いない。