万華鏡の世界

自分と自分と時々君

2つの交響詩に見るドイツ、フランス的音楽の世界観 

 今回は、リヒャルト・シュトラウス交響詩英雄の生涯》、クロード・ドビュッシー交響詩《海》。この2作品を通してこれらの作品の背景にある「ドイツ的」「フランス的」なるものがどのようなものであるかを考察する。



この2作品が書かれた時代は、音楽史では後期ロマン派と呼ばれることが多い。ただし、フランスの印象派音楽もこの時代に重なっている。後期ロマン派が生まれたのは、ワーグナーニーチェが大流行し、ヨーロッパが芸術的にも科学的にも盛んであったという時代背景がある。ワーグナーの没後から第一次世界大戦勃発までの凝縮されたおよそ30年に多くの作曲家が曲を残している。今日の演奏会でよく奏されるレパートリーは、およそこの時代までのものがほとんどで、西洋音楽史の書籍を幾らか見ると、これ以降の話はこの時代までの内容と比較して極めて少ない。西洋音楽史西洋音楽史として語られる確固たる時代は第一次世界大戦勃発までであったのではないかと考える。というのも、第一次世界大戦音楽史に深い関係があったのではないだろうか。パトロンだった教会や王侯貴族はこの時代よりもさらに前に崩壊していたが、それを引き継いだヨーロッパの社会的基盤も第一次世界大戦によって失われた。これにより、第一次世界大戦以降の音楽はそれまでの流れとは異なる無調時代や、その他の複雑な流れを作り上げていくこととなったのだ。



リヒャルト・シュトラウスドビュッシーの時代について述べる前に、ロマン派音楽に戻って2作品の曲の背景を探る。

ロマン派音楽は、西洋音楽史において言うまでもなく重要で名曲の多い時代であるが、その名曲、名作曲家が現れることに密接な関係があるといわれているのがこの時代に生まれた新しい聴衆層である。18世紀以降、音楽の市民化の流れが急速に広まり、それまでの貴族と教会のためだった音楽が市民をも楽しむことができるようになった。市民にとって音楽のある暮らしがある種の社会的ステータスとなっていた時代である。そのため、パトロンの要求に応じて曲を書く作曲家にも影響を及ぼし、芸術家は独創的に曲を作ることが可能となった。一方、音楽の一般化、民主化に伴い聴衆の質は低下した。18世紀のパトロンたちが全員選りすぐり目利きのプロであったとは断言し難いが、職業音楽家をも凌ぐピアノの腕をもった貴族のパトロンや、楽器の家庭教師を行っていた者もいるほど音楽には厳しい目を持った聴衆層であった。そのような聴衆の変化によって、知的で繊細な音楽よりも不意打ちによりあっと言わせる音楽の方がより聴衆の心を掴むものとして(1830年出版の教本『作曲について』より)、それに合わせていった作曲家も多くなった。

このエンターテイメント的な要素によって演奏家の演奏技術も向上し、高度な技術を必要とする曲が多く作られた。高度な演奏技術や聴衆をあっと言わせるような音楽は、特にパリで栄えたといわれている(岡田暁生:『西洋音楽史』148頁-149頁)。19世紀にはグランド・オペラも流行した。主にパリの上流階級に愛された。貴族とは異なる革命の合間に成金となった者達である。この聴衆層は高級サロンで音楽を鑑賞したため、サロンでの評判により成功をしようとした作曲家達がこぞってこの者達へのための曲を書いた。サロン向けの音楽は比較的聴きやすく、華やかで尚且つセンチメンタルである。ショパンやリストの曲(の一部)がそれに当たるといわれている。

クラシックを小難しい音楽だと思っている現代の一般人も多いが、その印象は和声により綿密に構築されたドイツの音楽の印象からきているのではないかと推測する。通俗化した音楽が流行したこの時代とは対照的に、同時期のドイツでは異なる音楽文化が発展した。堅実な教養市民階級に支えられるドイツ語圏の音楽は無駄な装飾をつけない、内容の充実したものが求められた。シューマンブラームスワーグナーがこれに当たる。19世紀のロマン派ドイツの器楽音楽の流れは大きくわけて3つある。1つは、シューマンの初期ピアノ曲メンデルスゾーンの《無言歌》に代表される、詩的なピアノ小品集である。2つ目は無言歌より、もっと理念的なものを表現しようとした標題音楽である。リストやワーグナーが手がけた作品にみられる。3つ目は絶対音楽である。ウィーンの音楽批評家エドゥアルト・ハンスリックは「『この音楽は何を表現しているのか』という問い自体が無意味であって、音楽とは音楽以外の何者でもありえず、音楽の内容とは音楽である。言語に可能な表現領域を徹底的に切り離すことでこそ、音楽は『絶対的』になる」という考えをもっていた。ハンスリックは一般にワーグナーと敵対関係にあったといわれている。この3つ目の代表的な作曲家はワーグナーである。

ドイツ語圏での中心ジャンルは交響曲で、聴衆は謹厳実直な中産市民であった。グランド・オペラやサロン音楽が栄えたのはパリで上流階級によく聴かれた。異なる音楽文化が同時期に繁栄したが、どちらも聴衆による影響があったに違いない。聴衆を感動させる音楽が求められ、作られた時代であった。



フランスの音楽はバロック期から19世紀半ばまで自国の名作曲家がほとんどいなかった。そんな中、1871年に「フランスにもドイツに負けない正統的な器楽文化を作ろう」という名目で国民音楽協会が設立される。国民音楽協会は、ドイツ音楽の主流となっているソナタ形式やフーガ、交響曲弦楽四重奏曲を導入しようとし、ドビュッシーを代表とする印象派と称される作曲家たちはそれを拒否しつつ、ベースにしてフランス音楽独自のアイデンティティの構築を目指した。

サロン音楽やグランド・オペラの通俗的なもの、軽薄さはドビュッシーに引き継がれている。とはいえ、今回挙げた交響詩《海》はドイツの交響曲が根底にあり、それを意識的にフランスらしく発展させたものであるために、私は「あえて」フランス特有の軽薄さや通俗性を表出させているのではないかと考える。ドビュッシーの音楽は、サロン音楽の伝統の延長線上にある洗練された、基こなれた音楽なのだ。

「あえて」とつけたのには他にも理由がある。ドビュッシーの音楽を聴いていると、先ほどの交響詩《海》しかり前奏曲集しかり茫漠とした音の響きを感じる。抽象的で色彩的な感じといえようか。しかしながら、この茫漠とした音の響きは茫漠とした感覚でつくられたものではないのだ。つまり、ただてきとうに作られたのではなく、和声法や管弦楽法を巧みに操ることができた上での表現である。これはフランス系作曲家に多く、ドイツ系作曲家があえてサロン音楽っぽい音楽を気取ったり、抽象的、娯楽的な方向に走ったりすることはなかった。



その一方、シュトラウスの音楽は確立された形式、和声、巧みな管弦楽法を重んじたドイツ音楽の最後の輝きのようでもあった。後期ロマン派と呼ばれるある種退廃的な熟れきった果実のような様相である。物量的にこの時代のドイツ音楽は凄まじく、マーラーシュトラウスともにオーケストラは大編成であった。交響詩英雄の生涯》は裕に100人以上を必要とする大編成であり(105名)、客の心を瞬時に鷲掴みにするような始まり方が特徴的である。この曲だけでなく、《ツァラトゥストラはかく語りき》や《アルプス交響曲》などその他の楽曲にも見られる。前半テンポが速く壮大であるのに対し、後半はゆるやかな流れで穏やかである。少なからず厭世的な、ニヒリズムの要素は音楽批評論や、書籍でいくらか書かれているが、否定している文献もあり定かではない。確かに曲調はニヒリズムを全く感じさせることはなく、壮大で華やかである。

しかし、シュトラウスの曲は冒頭がクライマックスだと思わずにはいられないほど素晴らしいのにかかわらず、その後は比較的穏やかでベートーベンのように期待するほどの山がなく、徐々に萎えていき最後は諦念の中で消え入ってしまうように曲が終わる。ニヒリズムといえばこの時代は先ほど述べたようにニーチェが大流行していたが、シュトラウスニーチェを崇拝していた。ニヒリズムが同居する世界観はニーチェとも相似しているのではないだろうか。それはこの曲以外の《ツァラトゥストラはかく語りき》からも推測することができる。この作品はニーチェの著書に促された思想を出発点としている(しかし、ニーチェの言葉を音楽として表現したものではない)。このようにして交響詩英雄の生涯》は思想と深く結びついたいかにもドイツ音楽らしい曲であった。



ドビュッシーシュトラウスはほぼ同時期に活躍した作曲家だが、その曲ができる背景、そして曲そのものの様相は全く異なる。ドイツ音楽に対抗し、サロン音楽、グランド・オペラを発展させ、軽薄さや通俗性をあえて表出させた色彩感豊かで抽象的な印象派音楽。内容を重んじ、理念的、哲学的な音楽を追求し続けたドイツ音楽。この2つが同時に存在した特に第一次世界大戦以前の時代が内容の濃密な、音楽史には必要不可欠な時代であったことは紛れもない事実である。



参考文献

浅香淳:『新音楽辞典(楽語)』音楽之友社 1977年

上尾信也:『音楽のヨーロッパ史講談社現代新書2006年

大町陽一郎クラシック音楽のすすめ』講談社現代新書1992年

岡田暁生:『西洋音楽史中公新書2008年

岡田暁生:『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』中公新書2009年

野村良雄『改訂 音楽美学』音楽之友社

宮下誠:『20世紀音楽 クラシックの運命』光文社新書2006年