万華鏡の世界

自分と自分と時々君

「渡る、」

 ある時、程々に緊張していた女を迎えたのは、一人の若い青年であった。

 互いに適当な飲み物を注文した二人は、あまり居心地の良さそうでない椅子に腰を下ろした。女はその狭くて赤い部屋を見渡し、左手にある扉をちらちらと気にしながら青年を見据える。

 女には青年が眩しく見えた。実際、肌の白さが印象的な人であった。いや、外見的にも確かに眩しかったのだが、青年のもつ雰囲気というものは独特で、内面から滲み出てくる何かが初々しさを醸し出していた。そして、青年期特有の押し殺しているであろう何かと混ざり合い、それらが快活さとして表面に浮上している感じがして女には非常に眩しく見えたのだ。それは、昔女も持っていたはずのもので、それを目の当たりにして実感することで、漸く女はその喪失を知ることとなった。

 女は続けて観察をする。良く目を合わせる人だった。根が誠実なんだろうか。その青年は、目元や口元の造形や表情筋により構成される表情がなんとなくまったりとしていて、周囲の空気と溶け込んでいた。癒やしである。この感じは猫と一緒にいる感じと似ているなと女は感じる。ただ、時折笑い方が鼻にかけて笑うような、そんな風に見えてしまう瞬間があった。女は「きっとこの人はそういう部分で誤解をされてきたのかもしれないな」とやや思ったが、「いや、実際相手を見下すことも人だからあるのだろうな、しかし顔にそれが出てしまうのは辛いだろうな」などと考える。「ゆえにそれを愛嬌と見做すこともできるかもしれないが、そこまで相手のことを掴む人も稀であろう」と意味不明な自画自賛を挟みながら女の分析は一旦終了した。逆接的思考を反復する癖のある女は、そうやって観察することに夢中になりすぎて、青年の話を聞いていないこともあった。耳が若干遠いせいもある。

 そうして二人は適当に話をしていた。自分から語ることの少ない女は、客観的には青年を困らせてしまっていた。話がやや堅い。しかし、堅さがあるものの、頭の良い彼はそれを自在に広げてゆき、あたかも堅くないような話しぶりで堅い話をしていた。何を話していたのかというと、「人と何を話すのか」という陳腐な話である。それから、互いのことを少しずつ話すことができるようになった。女が記憶していたのは、青年の彼女がデザイン関係の勉強をしているという話であった。芸術に強い関心を示す女は、デザインと芸術の境界がどこにあるのかを普段から考えていたため、「デザインって何?芸術とどう違うの?」と質問をした。意図的に専門的な話になることを避けていた彼は、雑な答え方をしたのだろうか。あるいは、雰囲気に飲まれたか、理解が及ばなかったか、そこはなぜか女の記憶に残ることはなかった。

 互いに恋人がいる状況で二人で話をするというのは実は意外に少ないことで、その新鮮な関係に女は満足していたのと同時に、このような場合、恋人の話を積極的にしたがるのは適切なのか、という変な問題について考えていた。経験上は、男性は異性といる時、他の異性の話をするのを避けたがるという傾向を知っていたのだけど、これはその男が女に恋愛感情を多少抱いているのが前提にあるため、今回のケースには当てはまらない。友好的な意味でだが、好意を抱いている人が好む相手なのだから、聞きたくなって当然であると女は考えていた。もっと話を聞き出したかったが、青年はあまり恋人の話はしたがらなかった。訊かれれば答えるといったスタンスだろうか、なるほど、では私も同じように振る舞おうとその場では「デザインの勉強をしている」という話だけをした形となった。まさか今後もそのようなスタンスが貫かれるとは、さすがに二人は考えていなかっただろう。

 そうやって長時間に渡って話をした後、店を出た。歩く時、二人の間隔はかなり離れていて時々はぐれそうにもなった。女は店の表に書かれていたイタリア語の意味をうんうん思い出そうとしたが出てこないので、もやもやしていた。ペースもやや遅くのろのろと歩いている。「存在感がないね」と青年は遠慮のない言葉を言い、女はその言葉にやや動揺したが、すぐに何事もなかったかのように歩いた。

 

 それから何度か会った時か、もしかしたら二回目に会った時だったかもしれない。予想外に遅くなってしまったので、二人は夕食を食べることにした。青年が飲みたいと言ったので、女は了承し、てきとうな店に入った。そこは半個室の黒い布で仕切られた空間であった。黒い空間というものは、それだけで何かに飲まれたような感覚になってしまう。二人は飲む前から雰囲気に酔っていたのかもしれない。

 女はまた話題に少し困った。でも、お酒というのは不思議なものでなし崩し的に話は進んでいく。便利である。氷の入ったグラスを揺らしながら、女は始め青年が失恋したばかりであるのを少し気にかけていた。いつものように明るく振る舞う青年を見てその心境を窺う。しかし、お酒が回ってくるとその配慮も薄らいでいく。遠慮もなくその場を楽しい、と女は思う。女は快楽主義であった。

 互いに高揚感が増していった。猫のように癒やしてくる青年である、女の警戒心はとうに失せていた。いつもなら酔わない女がまるで自宅で飲んでいる時のように安心しきっている。状況が事の次第を既に予期しているようだった。

「気持ち良くなってきちゃった」

 唐突に女は言った。すると、青年はそっと手を差し出した。何かしようと手を伸ばしてきたのではなく、握手をするかのように伸ばしてきたのだ。何かに縋りたくなっていた女は、握手をした。女に衝撃が走った。全身がビクビクする。青年は驚いて、手を一旦離した。そして再びゆっくりと手を握る。手を握るだけに留まらなくなった青年は掌を指で擦る。さらに女は打ち震えた。目を開いているのが辛いのか女は目を細める。上気した女の元へ青年はそっと近づいた。

 ほんの数秒のことだった。女は唇を奪われた。頭が真っ白になった。女は青年を拒むどころか積極的に受け容れる。あまりの震え方に青年は驚く。悦びだけがただそこにはあって、それ以外のものが吹き飛んだ瞬間だった。ねっとりとしたキスをビクビクした身体で女は受け止める。両者の舌が、唾液が絡み合い、意識が、そして理性が遠のいていく。続けるほどに胸がキュッと締め付けられるような感覚を女は覚える。青年の存在が女の心に広く亘っていく。心が青年で満たされていくのを感じとった女は再び全身を震わせた。

 しばらくすると、二人はいつの間にか店を出ていた。「何もなかったのでは」という気さえ起こるほど青年は女から見て自然だった。しかし、どこへ向かって歩いているかいまひとつ掴めないまま歩いていた。人混みに流されることなく、はぐれることなく歩いていることに少し驚きながら女は青年と歩く。まったりしていた。ごく自然な流れで青年は女を誘った。女は躊躇することなく了承する。魔法はかかったまま、解けることがなかった。 

 そうして二人は夜の街に消えていった。

 

 二人はカフェにいた。女はアイスコーヒーを不味そうに飲んでいた。このアイスコーヒーは、紙パックのコーヒーを氷の入ったグラスに注いだだけであろう。ホットコーヒーだったらまだマシだったかもしれない、と一口目で後悔した。水滴がグラスにたくさんついており、グラスを持つとテーブルにポタポタと垂れる。一方青年はあまり表情に出すことなく紅茶を飲んでいた。味の評価を言葉にしないということは、取り立てて美味くはないのだろうな、と女は推察する。

思い返せば狡猾な人ね、とやや思う。思いながら相手を見つめていた。自分の性質を棚に上げて相手を貶めていることに女は気づかない。見つめすぎたのか、瞳孔が揺らいだのを見られたのか、青年に気づかれる。

「何?」

「ん、なんでもない」

「本当に?」

「ちょっと昔のことを思い返していただけ」

「……ふうん」

 女は何かを思うと、それを毎回相手に気が付かせるのだが、肝心の何を思ったのかを伝えない。いやさすがに突然「狡猾だよね」とは言えないだろう、と女は思ったのだが、青年だったら口にしているのだろうなということに気づく。

 静かに青年が語るのを女は時折相槌を入れながら聞いていた。生活の話になると、途端に色濃く「らしさ」を感じてしまう。青年の人生は目まぐるしいものがあった。飽き性のせいなのか、運命なのかは知らないけれど、変化に富んだ生活である。出会ったばかりの頃、青年の活動歴を聞いた女は、世の中を巧みに渡ってきた印象を受けたものだったが、今では少し違うように感じていた。そうならざるを得なかったからそうしてきたのではないかと思ったのだ。一方、女の生活は代わり映えのしない穏やかな生活を送っていた。「自分」とはすなわち習慣である。生活が人を形成している。そう言った意味では、外形が全く異なる二人だった。そんな二人が今同じ空間にいるということに気づいた女は妙なことだわ、と笑みをこぼす。

「何?」

「なんでもない」

「なんでもないのに笑うの」

「うーん、思い出し笑いってやつ」

「何を思い出してたの」

「なんだろう」

「……」

 二人はカフェから出た。時雨が渡ったらしい。雲間から太陽の光が差し込むと、濡れたアスファルトがキラキラと輝いていた。歩きながら女は青年の手をちらと見る。青年はそれに気づくが、何もしない。動じない青年を前に軽くショックを受けつつ、躊躇いがちに相手の指に指を絡めた。一気に熱くなる。青年は女の体温の上昇を感じ取る。目を見て、伝わったことが分かると女は更に熱くなった。手を繋ぐと、さすがにはぐれない。ぴったりとくっついて、揃わなかった足並みが徐々に合っていく。

 数メートル先の交差点を渡ると目的地だった。ゆくあてのない小鳥がくるくると旋回しているのを二人は見上げた。

「忘れ物した」

 女はゴソゴソとバッグの中を探してみたが、探し物は見つからなかった。

「戻る?」

「……。大したものじゃないから戻らなくて良い」

「そっか」

 再び手を繋いだ二人は、タイミング良く信号が青になった交差点を渡った。