万華鏡の世界

自分と自分と時々君

『セロ弾きのゴーシュ』に登場する楽曲の考察

 

 

 『セロ弾きのゴーシュ』は、その表題の通り音楽が大きく関与する物語である。音楽そのものを主題にしているというより、ゴーシュという人物を描くための足がかりとしたという見方が賢明である。物語の主要なモチーフというものは他に存在するが、物語の構成や内容を見るにつけ、常に意識せざるを得ないその音楽の存在について音楽を学ぶ者として論じないわけにはいかなかった。そこで、今回は『セロ弾きのゴーシュ』を音楽的観点から読み解き、とりわけ「第六交響曲」についてその曲を選択した書き手の意図を模索する。

 「ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。」という一文から始まる。活動写真館は今の映画館に当たる。映画がまだサイレントだった頃、その音楽をつけるのが「楽手」であり、ゴーシュはそのチェロ担当であったということだ。描かれる情景から小さな町は田舎にあることから、ゴーシュは二十人程度の小規模編成の管弦楽団に属していたのだと推測する。ゴーシュは「仲間のなかではいちばん下手」ではあるが、プロの楽団に属していることからある程度の技量はあったと考える。しかし、「プロ」と呼ばれる金星音楽団がライバル視していたのは「金沓鍛冶だの砂糖やの丁稚なんかの寄り集まり」というようなアマチュア楽団であり、レベルはそこまで高くないようだ。そのなかでもゴーシュは「いちばん下手」なのであるから、アマチュアとプロの丁度境界線に位置するような腕前である。

 そして音楽会で演奏する「第六交響曲」の練習風景が語られる。この「第六交響曲」はベートーベンの〈田園〉だと有力視されているが、実際のところ明確となっていない。その練習風景から分かることは、トランペット、クラリネット、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、チェロが編成に含まれていることである。そしてここからは独自の解釈になるが、歌うトランペットからトランペットが旋律、「二いろ風のやうに」鳴るヴァイオリンは和音やオブリガート、その補助としてクラリネット、最低音を受け持つものとしてチェロといったような分担で奏する小節ではないかと予想した。その予想のもと〈田園〉の楽譜と照合する。

 まず、トランペットが登場しない第一楽章と第二楽章は除外する。そして「トォテテ テテテイ」という楽長の言葉から拍子の関係で第三楽章も除外される。次に、トランペットが「歌う」つまりある程度の長さのある旋律を奏でている箇所を探す。第四楽章はトランペットが「歌う」ほどの長さを奏する箇所はない。第五楽章についても同様で、トランペットが歌っていると思われる箇所があってもチェロは休みであったり、他のパートが動いていなかったりとやはり条件にあてはまる箇所がない。ベートーベンの交響曲第五番と六番は一時期入れ替わっていたことがあるため、第五番の〈運命〉も視野に入れて照合を試みたが、やはり該当する箇所がなく、第六番に変更する前、第九番であったことから第九番の〈歓喜の歌〉も照合したが一致しなかった。
 大木愛一、池川敬司の『文学と音楽の交感‐宮沢賢治童話「セロ弾きのゴーシュ」を通して‐』の中では、該当する楽器構成を有する楽曲はチャイコフスキー交響曲第六番〈悲愴〉であると主張している(さらに第三楽章であると論及している)。確かにベートーベンの楽譜と比較すると、チャイコフスキーの〈悲愴〉第三楽章はより物語と合致する内容である。「悲愴」というと、その意味合いから物語の雰囲気とは合わないという主張も考えられるが、日本語の副題がそうであるだけで、チャイコフスキーがつけた副題の『パテティーチェスカヤ』はロシア語で「熱情」を表すということに留意したい。フランス語では確かに「パテティーク」で「悲愴」を意味するが、その両者の語源を辿るとギリシャ語の「パトス」であり「情念、情感」となるため、どちらをも含んだ意味合いとなる。平たくいえば、それは揺れ動く感情を想起した楽曲であり、「セロ弾きのゴーシュ」ともぴったり同調するのではないだろうか。音楽的にも〈田園〉よりは、やや重いが違和感を覚えるほどでもなく、難度の高いチェロのフレーズを含んでいることから、アンコールの際に楽長がチェリストであるゴーシュを呼び寄せる流れも円滑で納得がいく。

 ところが、最終的に「第六交響曲」となる前に「第九交響曲」であったことが問題である。厳密には、「第九音響楽」の後に「ほたうの唄」に変更され、最終的に「第六交響曲」となったと入沢康夫は述べている。チャイコフスキー交響曲に第九番は存在しないため、やはりベートーベンの〈田園〉が有力なのである。〈田園〉には、かっこうをイメージしたモチーフが存在し、ゴーシュのかっこうとの交流の場面で「第六交響楽」を挙げていることや、最後の場面でかっこうに対してゴーシュが「おれは怒ったんぢゃなかったんだ。」と言っていることから、かっこうと〈田園〉の関係を述べることも可能である。あるいは、そういったことではなく、ベートーベンの音楽性、精神性のみをモチーフとして話に組み込んだのではないだろうか。詳細は後ほど記述する。

 「第六交響曲」のように曲名が出てくるものとしては他に「印度の虎狩」がある。この曲は、物語において「第六交響曲」より重要な位置を占めている。猫との交流と、アンコールを受けての場面で演奏され、質はその前後で異なり大きく変容している。この曲は、「セロ弾きのゴーシュ」が書かれた時期にビクター・レコードから発売されていたコメディ・フォックストラットによる〈Hunting Tigers Out in India〉を元にしているのではないだろうか。原曲の雰囲気はコミカルで、ブルーノートを多用した陽気な音楽という印象であるが、初期の録音では実際の虎の鳴き声や鉄砲の音が入っていることから勇ましい音楽ともとれる。テンポをアレグロからプレスト程度まで速くし、アレンジを加えてチェロで力強く弾けば猫が火花を散らしながら退散するほど激しく凄まじい楽曲になるのである。ただ、かなりの改変が必要となるため、原曲とは似て非なるものであることは留意すべきである。

 宮沢賢治は動物達との交流において、音楽的な意味ではゴーシュの技術を向上させる場面を描いていた。チェロ弾きとしては初心者だった彼だが、技術向上に必要な条件を基礎的でありながらも的確に捉えていることから音楽の理解はかなり深いものであったことがうかがえる。技術向上における記述に関して不足している点を挙げるなら、曲の解釈という演奏者には必須の事項である。それは和声の理解や作曲者の時代背景、文化などさまざまなものを考慮するという意味であり、全くその努力がゴーシュに成されていなかったわけではない。楽譜をよくよく見ることは、曲を理解することそのものであり、本当にそれが成されているのであれば、分析や曲の背景を辿る作業は装飾程度の重要性にしかなり得ない。ゴーシュが行っていたのは、文章を辿る限りでは「楽譜を読む」作業ではなく、音の強弱やアーティキュレーションに注意を払うと言うような「楽譜を見る」作業であり、理解への足がかりとはなるが、それだけではアマチュアの域となってしまうため理解不足ということになる。本作が児童文学であることや、四種類の動物の登場というバランスを考慮すると、そちらを優先させるために詳細には語らなかったのかもしれない。ベートーベンの音楽の精神性をおよそ理解していたからこそ『セロ弾きのゴーシュ』に入れてきたのだろう、と話の構成やその物語のもつ性質から判断できるため、それらのことを賢治が知らなかったということは考えにくいのである。そうであるために、〈田園〉には『セロ弾きのゴーシュ』の練習風景のような楽器構成の状態にならないことがミスであるとはどうしても思えず、意図的に詳細を〈田園〉のままにすることを避けたのではないかという結論に至った。「第六交響曲」が全くの架空の楽曲でないとする根拠は、推敲段階で何度もその題目を変更している点である。それだけ物語における楽曲は、単にあらゆる音楽の中の「何か」ではなく意味を持たせたものなのである。具体的に「第九交響楽」と選択をしていることからも何がしか参考にした基となる曲が存在することを示唆している。

 吉本隆明によれば「かれの理念が、地名や人物の起源の固有性とははんたいの普遍性にあったとすれば、架空な場所や人の呼び名として造語され、それがどんな固有の場所や人の名も連想させないのが、理想だったとおもえる。」と述べている。元となる楽曲を明らかにしないことや、参考にした曲があってもそのままを利用しようとしない理由は引用部にあるようなことが考えられる。『セロ弾きのゴーシュ』という物語を確立させるために、具象的に楽曲について、そして音楽については触れなかったのである。そういった点を考慮すれば、「第六交響曲」はあえてベートーベンの楽曲であることを匂わせ、「印度の虎狩」はその独自性を高めるためにベートーベンより知名度の低い楽曲の曲名を使用したのではないだろうか。「第六交響曲」は確かにゴーシュと人々の交流の場として練習風景と本番の音楽会で登場するため、ある程度重要であるが、物語においてより重きを置かれている動物との交流に登場し、さらに人々の前で奏でることとなった「印度の虎狩」はより重要な音楽である。解釈によって自在に変容する独自性の高い音楽が「印度の虎狩」であり、その背景にベートーベンの音楽における精神性がある。物語の構成や、その構成の厳格さというのはベートーベンの交響曲にも通ずる。

 最後に、ゴーシュとは何者であるのか。山田兼士の『抒情の宿命・詩の行方』では「ゴーシュは〈他者〉である。だが、この〈他者〉は物語の展開に沿って次第に高次化されていきついには〈自己=他者〉の統合体へと変貌を遂げていく〈他者〉なのだ。」と述べている。私はその考えに至るほど理解は及ばなかったが、自身の言葉で表現するならゴーシュは〈境界人〉的であった。動物達との交流における四元論によって構築された「自己」とは別でありながら近似である存在であり、動物と人との境にいた存在であり、音楽の技量的にプロとアマの境に位置していた存在であった。

ベートーヴェン 交響曲6へ長調<田園>作品68


Beethoven: Zesde symfonie/Symphony no. 6 - LIVE concert HD

チャイコフスキー 交響曲6ロ短調<悲愴>作品74


Tchaikovsky Symphony NO.6 (Full Length) : Seoul Phil Orchestra

Hunting Tigers Out in India


hunting tigers (original)

 

参考・引用文献

入沢康夫 1991年 『原色複製<セロ弾きのゴーシュ>草稿について』解説冊子

遠藤祐 2009『「セロ弾きのゴーシュ」 : その語りの仕組み』

大木愛一、池川敬司2007『文学と音楽の交感 -宮沢賢治童話「セロ弾きのゴーシュ」を通して- : 文学と音楽のコラボレーション』

黄 毓倫 2011『宮沢賢治の童話「セロ弾きのゴーシュ」における音楽的な一考察--ベートーヴェン交響曲第六番「田園」と第九番「合唱」の精神』

佐藤克明2002年『ゴーシュの時代とまち』

佐藤泰平 1995年『宮沢賢治の音楽』

土田英三郎<解説> 2003年『ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調<運命>作品67』

土田英三郎<解説> 2010年『ベートーヴェン 交響曲第6番へ長調<田園>作品68』

土田英三郎<解説> 2003年『ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調(合唱付)作品125』

中地雅之 1997『「セロ弾きのゴーシュ」における音楽的陶冶の諸相 - 宮澤賢治の童話によるコラージュ -』

堀内敬三<解説> 2004年『チャイコフスキー 交響曲第6番ロ短調<悲愴>作品74』

牧恵子 1992年『賢治作品の表現研究(3) : 呼称からみた「セロ弾きのゴーシュ」』

松岡由紀 1987年『「銀河鉄道の夜」と「セロ弾きのゴーシュ」 : 晩年の賢治童話と音楽』

山田兼士 2006年 『抒情の宿命・詩の行方―朔太郎・賢治・中也』

吉本隆明1989年『宮沢賢治