『存在の耐えられない軽さ』を読んだ。
- 作者: ミランクンデラ,Milan Kundera,千野栄一
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1998/11
- メディア: 文庫
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以前紹介した本をようやく読み終えた。結局私はこの本の何かを捉えるどころか受け止めることもできなかった。しかし、興味深い文章に出会すことができた。
「私」というものの唯一性は、人間にある思いがけなさの中にこそかくされているものである。すべての人に同じで、共通のものだけをわれわれは想像できる。個人的な「私」とは一般的なものと違うもの、すなわち、前もって推測したり計算したりできないもの、ベールを取り除き、むき出しにし、獲得することのできるものなのである。
この後の文が特に興味深い。
彼は女に夢中になるのではなく、その女の一人一人の思いもよらないところにひかれるのだ。別なことばでいえば、一人一人の女を違ったものにする百万分の一の差異に夢中になるのである。
中略
もちろん、われわれはその百万分の一の差異を、よりによってセックスに求めようとするのかと質問することができる。差異をそれぞれの女の歩きぶりとか、グルメ嗜好とか、芸術的趣味に見出しえないのであろうか?
もちろん、百万分の一の差異は人間の生活のあらゆる領域に存在するが、それはどこでも公然と白日の下に晒されていて、それを探す必要もなければ、メスを使う必要もない。
中略
ただセックスにおいてだけは、百万分の一の差異が貴重なものとしてあらわれてくる。というのは誰でもが得られるものではなく、努力して得られるものだからである。半生記ほど前には、女の愛を勝ちとるために多くの時間を捧げなければならなかった。そんなわけで獲得のために捧げられた時間が獲得されたものの価値をはかる物差しとなった。
私はこの文章に出会うためにこの途方も無くつまらない散策を続けたのだ、とさえ思った(面白く読んでいる人には申し訳ないが)。私自身、ここにあるようにセックスに何を求めているのかと問われるとこの唯一性なのではないかと考えることがしばしばある。心地良さを求めるのは当然であるが、人間として何を求めているのだろうという問いになかなか明瞭な答えを見出してはいなかった。言葉を与えられた今、なるほどこれは私の心情に近いかもしれないという感覚を覚える。
しかし、価値をはかる物差しとして時間を必要としているのかという点には疑問が残ってしまう。腑に落ちないポイントである。なぜなら時間をかければかけるほど喜びが増すかと言われるとそうではないからだ。(快感としての悦びは増すかもしれない)
また、私はセックスのみに百万分の一の差異を求めるのではない。セックスにおいても求めるのである。「歩きぶりとか、グルメ嗜好とか、芸術的趣味」にも見出したく思う。
というように、やや異なる点はあるものの、引用部の内容には概ね同意しているし、良き読書経験になったと思った。(というより苦労して読んだのでそう願いたい)