万華鏡の世界

自分と自分と時々君

人と話すということ2

他者は楽しく関係するための手段か、それともその人の存在ゆえに関係したくなる目的か

 

上手く飲み込めていないのだが、私は両方の側面があると思っている。先の

人と話すということ - 万華鏡の世界 では、主に手段的な側面を書いたが、後者を切り捨てた内容でないことはおそらく伝わると思っている。

 

唐突に今勉強している音楽の話を持ち出すが、音楽は純音楽的に聴かれるべきか否かという問題を考えているところで、純音楽的というのはいわゆる絶対音楽を聴く態度に代表されるものであり、「形式や性質において、非音楽的ないし音楽外的なものへのあらゆる意識的恣意的な関連を、少なくともその鑑賞において除外するもの」のように音楽を聴く態度である。音楽の種類における絶対という観念は一つの意図、一つの理想を示すものとして理解すべきであり、純音楽的な聴き方が音楽の最上の聴き方であると断定してしまうと、問題がいくらか生まれてしまうため、絶対音楽を支持しようという気はないが、絶対音楽絶対音楽的に聴かれるべきであることは明白であり、その他の音楽においても絶対音楽的な鑑賞の姿勢を捨て去るべきでないという考えに至っている。

ただ注意したいのは、一般には純音楽的な聴き方をするケースの方が少ないのと、ロマン主義の行き過ぎな立場は退けるべきであるとしても、音楽の感情的な力は認められるべきであるという点である。つまり音楽を単なる数と見做すことも、感情を表現したものであると考えてしまうこともどちらか一方では誤りに違いない。

 

他者は手段なのか目的なのかという問いに関しても、同様のことが言えるのではないかと考えた。この問題の場合、手段と目的は不可分な気がするのだ。私の立場としては顕在化した意識としては手段であることが多いかもしれないが、それは潜在的に目的があってのことで、目的なくして手段を講ずるわけではないのだろうという推測ができる。

私の周囲にいる人間はいつだって魅力的で、私はその魅力に魅了されて関係する機会を窺っているし、自分や相手が楽しめる瞬間を積極的に作りたいと考えている。自分が楽しむということは相手を楽しませることにも繋がるし、人と話すということは、自分が意識的に思っている以上に様々な作用が発生している行為だと思っている。