万華鏡の世界

自分と自分と時々君

文章についての走り書き

起承転結などの展開に慣れすぎている話

 

普段読む多くの文章がロジカルなだけに、そうでない文章に触れた時の異物感がものすごい。小説に関しては「そういうものだ」という認識があるからまだ良いが、いかにもまとまってそうな記事を読んだときに、ロジカルでないと「アレ」となることがしばしばある。それは、女性の文章に多い気がするが、すべての女性の文章が読めないというわけではない。とりわけ苦手なのが、ツイッター等のネットで持て囃されている文章。キャッチコピーのようなコテコテとした文章が1つの記事の中でも多数あり、その度に軽い笑いを誘うようなものが多いように見受けられる。私は格言的な文章というものがそもそも苦手で、どこに「いいね」をしたら良いか分からない。結局何も言っていないのでは、という気が起こってしまう。人気のある文章を楽しめるようになりたいとはあまり思わないが、もっと広い世界を私は欲している、つまりさまざまな文章を楽しめる心を得たいわけで、そういった意味ではロジカルな文章だけに慣れ親しんでいる今の状態は危機的であると言わざるを得ない。

ふとここで矛盾に遭遇する。普段の私は結果より過程に重きを置いているのに、文章に結果を求めすぎてしまうのはどうにも滑稽ではないだろうか。いや、簡単にそう言い切ってしまうと、結果以外を大事にしているなと感じる時がいくつもあるのをすぐに想起できてしまうから、すべての文章に結果のみを求めているわけではないのだろうけれど、少なくとも求めてしまう文章の例を2つ知っている。1つは知人の哲学的な話と、もう1つが先ほどのSNSで持て囃される文章。どちらも共通するのは、自分にとって「真意が見えない」ということなのだと思う。日常からかけ離れているように見える知人の哲学的な話の文章を見た時に、この主義主張をすることによって筆者は一体どんな目的が達成されるのだろうかという疑問が湧く。そういうものではないのかもしれないけど、そのようなことが書いてないか期待をしてしまうのだ。だから、読んでも腑に落ちない感じになってしまう。一方SNSで持て囃される文章というものは、人を引き付ける要素を多く含んでいることに特徴があり、私が読む限りでは人の注意が引ければ目的が達成されている感じがする。つまり内容らしき内容がそこにはない。この2つの例を強引にまとめあげてしまうと、各方面から矢が飛んできそうだが、あえてまとめてみると、ディテールの重要性というものが浮かび上がってくるように思う。私でも納得して読めるような小説にもその側面があるし、そのようにロジカルでない文章というのはそのディテールが文章の世界のすべてなのではないかという気にさえなる。

ディテールの重要性は音楽にも通じる。感情云々の問題を意識する時に形式について考えが及ぶのは想像に易いが、その形式(細部を含む)こそが音楽の内容、つまり音楽の自己目的的な性質があることに関連して考えられそうではないか。ディテールが重要であることと、音楽の自己目的性は単純に一元化できるものではないにしろ、そこにある「細やかな表現」を内容として意識づけできるという点では非常に似ている。物語の展開や主題をその作品のすべてであると捉えるのは非常に危険であるし、音楽を感情的な側面ばかりを捉えて悦楽的に鑑賞するのもあまり良いとは言えない。内容とは、細部に渡ったそれそのものも含まれるのだから、そういう意味では結果に当たるものが何であるかということはさほど重要ではない場合もある。(当然、「結果」もその作品の内容であるから不要だとはいえないが)

ここまで書いてみて、私は文章を読むときに結論や発話の目的を求めすぎているあまりに細部を見落としがちなのかもしれないという気づきを得られたし、良く分からない苛立ちも抑えられたので非常に満足している。他人にとって価値ある話ではないかもしれないけれども、一応ブログに残しておこうと思う。

「好き」が「嫌い」になる時、「好き」がなくなる時

とても印象的な場面に出会したのでふんわりと書き留めておきたい。

最近「好き」から「嫌い(憎しみ)」へ変貌する様を目の当たりにした。

端的にいうと、私に好意を寄せていたと思われる人が私の言動によって私を憎むことになったという内容である。

相手が怒るだけのことをしたのは事実で、怒られて当たり前なのだが、その場合、怒るが関係を続ける人と、怒って関係を切る人というのが出てくると考えられる。今回は後者であった。この違いは好きが続くか、消えるかというシンプルな差であるに違いないが、なぜそんな違いが生まれるのだろうか。

「触れられそうだから好きなのか、好きだから触れたいのかという違い」

この違いが分かるだろうか。期待が先に来るのか、気持ちが先に来るのかという差であるが、期待が先に来る場合は、裏切られた時に相手を憎む傾向があるのではないかと考えた。

以前私は、アスクでこんなことを書いた。

愛と憎しみ、好きと嫌いが紙一重なのはどうしてでしょう | ask.fm/caleidoscopi0x

冗長的であまり良い回答ではないし、今となってはやや違うなという部分もあるが、関連しているため載せておく。

簡単にいうと相手を都合良く捉えているから、そのイメージと実際が異なった時に失望して憎むことになるのではないだろうか。今回のことは私という人を受容しきれなかった結果なのだろう。受容しきれなかったといえば、もうひとつの件でもそうだった。自分の勝手なイメージを押し付けてきて、勝手にそのイメージとの差に苦しんだ末、怒りをぶつけて縁を切ってきたという謎のイベントがあった。

どちらが悪いとかそういう話ではないのだけれど、アスクでも話しているように、憎しみを引き起こす場合の「好き」という感情は、おそらく私が思っている好きという感情とは違うということを明言しておきたい。

 

そして「好き」がなくなる瞬間も経験した。

何度か経験はあるが、今回は特に唐突だった。今まで使われてきたエネルギーが一気になくなった瞬間だった。きっとあまりに情熱的すぎたのだろうと思う。

なんとなく北風と太陽を思い描く時があったが、なくなった今、つまりそういうことなんだろうと思う。

 

どのようにでも捉えられる出来事ゆえに恣意的になっていることは否定できないが、私がなぜこう思いたいのかというと、今、守りたいものが手の中にあるからである。

音痴の話

フォロワーさんに音楽や音に関して何か疑問に思っていることはないか尋ねたところ、「音感のある人ない人、音痴な人とそうでない人ってのは、どういう風に違っていると考えられているんでしょう?」という問いをいただいたのでお返事を書きたいと思います。音痴な人とそうでない人の話をすると自然と音感のあるなしに関わってくるので、その辺りを含めて今回は「音痴」について詳しく話をしたいと思います。

 

私達が音痴な人をイメージする時、具体的にどのような人のことを想像するだろうか。おそらくカラオケで音程が取れていない人をイメージしてもらえれば分かりやすいかと思う。そのイメージで統一したい。では具体的に「音程が取れていない」とはどういうことなのか見ていきたい。

音程が外れてしまう原因は二つある。発声の問題と聴音の問題である。発声が原因で音程が外れる人は、声帯などの発声を司る器官の筋肉運動の訓練不足によって音符通りのピッチやリズムに合わせた声の強弱の制御がうまくできていない。つまり、訓練さえすれば発声による音痴は改善することができる。

ではもう一つの原因の場合はどうであろうか。人間は声を出す時、耳で声の強弱や高低は正しいか、伴奏に合っているか、意思通りに音声器官が働いているかなどを常にチェックしている。このフィードバックが何らかの原因で正しく動かないと制御困難に陥り、もはや正しい音程では歌えなくなってしまう。器質的な問題の場合は音痴を解決することができないが、聴音音痴の多くは歌うときに声を出すことに一生懸命になるあまり、自分の声の高さがどのぐらいか、リズム・伴奏に合っているかなどに注意が散漫になってしまっていることが原因であろう。自由気ままに歌っているだけでは、いつまでたっても歌の上達は期待できない。

つまり音痴な人は、訓練不足と注意不足によってそうなっていると考えられる。音感というものは、西洋音楽を聴いた時に、美しさを感じられれば備わっているとされているので、通常音感が全くないということは考えにくい。

 

以下まとめ。

「音感のある人とない人の違い」…西洋音楽を美しいと感じられるか否かという点、もっと根本的なところでいうと、協和音と不協和音の認知ができるか否かという点。

 

「音痴な人とそうでない人の違い」…音痴には発声音痴と聴音音痴がある。音痴ではない人の場合、発声の訓練ができており、聴音もきちんとできているが、音痴の人の場合はどちらかに問題があるか、あるいは両方に問題があるとされている。器質的な原因の場合は改善の見込みがあまりないが、多くは改善できると考えられる。

 

質問にうまく答えきれてない気がしますが、私の持っている知識はこんな感じです。

 

参考文献

『音のなんでも小事典』日本音響学会、2005年、講談社

見知らぬ彼女

彼を通して見える彼女は非常に可愛気があって透き通っていた。

まっすぐに彼を見つめて、信じて疑わない。

しかし、彼女には見せない姿が彼にはあった。

病気だ、と私は思った。なんとか治したかった。

まだ見ぬ、そしてこれからも絶対に会えぬ彼女のためにも。

ところが、病は私を発端としていた。

どうしようもなかった。せめて私が彼女だったら……。

ただ苦しかった。彼の前で何度涙を流しただろう。

どうして自分だけ黒い感情を抱かなければならないのだろう。

何故こんな目に遭うのか分からない。彼を憎みさえした。

私はいつも汚れていた。クタクタに疲弊していた。

そこから解放されてやっと自分になれた。

そして時が経ち、そんなことを考える自分さえいなくなり、

私は本当にくすんでしまった。

嫉妬の末

彼女は私の日常の端っこにいた。そっと彼を見守っている。

私は彼女が彼に好意を寄せていたことを知っている。彼女も私のことを知っていた。

彼女が彼と話をする時、ほんの僅かに見える切なさを私はチクリと勝手に感じる。

昔はチクリどころではなかった。嫌悪感もあったが、今ではもう可愛いものとなった。

彼女は未だに痛みを感じているのだろうか。

見えない溝に声を発し続けているのだろうか。それとも。

私は彼女の、その薄紅色の半透明な羽根を踏み躙っている感覚を覚える。

どのように考えても彼女にとって私は都合の悪い人物である。

しかし、彼女は私のことを好きだと言ってくれる。

そのことがさらに私を悩ませ、苦しめるようであった。

明らかに私は彼女を間接的に虐めていることになるのだけれど、彼女はいつものように笑うだけであった。

今日もまた日常の端っこにいる彼女を感じている。

チクリと刺す半透明の痛みが、喜びと切なさと醜さを私に呼び起こす。

音楽に対して何も思うことがないという話

「何も思うことがない」ということがどういうことなのかについて話したい。

私は音楽が嫌いで、なぜ嫌いかというと頭の中で鳴り響いて離れないからである(厳密には、「頭の中で鳴り響く音楽」が嫌いで、音楽の全てを嫌っているわけではない。頭に比較的残りにくい音楽に対しては好意的である)。もうこの時点で「思うことがあるじゃないか」という意見が出るだろうけれども、あえて無視して話を進めたいと思う。嫌いならなぜ音楽について勉強するのか、という問いも簡単に見出だせるが、それは考えざるを得ない状況に音楽が追い込んでくるからである。好きや嫌いといった感情で接しているわけではなく、考えなければならない状況になぜか追い込まれるといった感じだ。私は、幼少期からピアノを習わされ、なんとなくではあるが常に音楽とともに歩んできた。つまり、今更嫌だと振り払おうとしても、腐れ縁のごとくついてくるのが私にとっての音楽というものである。そのため、なぜそのように頭の中で鳴り響くのか、排除するためにそのメカニズムが知りたいと思うようになった。もっと柔らかい言葉でいえば、人の情動を喚起する音楽のその性質についての詳細が知りたい。そのように私の知りたいことというのは、おそらくあらゆる分野から音楽を捉えなければ自分が納得し得ないだろうと考えていて、さらに、捉えるだけでは不十分で構築できなければならないと現段階では考えている。

ここまでで、おそらく私が音楽を賞賛したいわけでも、音楽を通して何かを成し遂げようとしているわけでもないことが分かるはずである。前述にあるように、知りたいことはあるが、私が音楽をする時、考える時、それは必ずしも目的を伴うわけではない。私が音楽について何かを書く時、それは自分の感情を抜いたものであることが多い。なぜなら音楽に対して好きだという感情が希薄だからである。そういう意味では「何も思うことがない」のに、書いているという図になる。実に滑稽である。諸々の音楽に対する評価が淡白であるのも、良いか悪いかは言えても大半のものが好きではなく、関心が低いからである。そんな熱情を欠いた状態で一体何を熱く語れば良いのだろう、何もない。しかし、音楽について多角的な視点で考えるということ自体は好む。なぜなら、考えることが好きだからだ。一番身近で一番知っているであろう音楽はそういった意味で手頃な存在である。この辺りで何か矛盾を孕んでいそうな感覚はあって、人から首を傾げられてもおかしくはないだろう。それに全く思うことがなければ、文章に起こすことは不可能かもしれない。何を書くかに関して、私自身は面白いと感じたことを書くようにしているつもりである。読み手に面白いと思われなければ、それは伝え方がまずいということになるし、(もしくは感覚の相違によりその人にとっては面白くないことである)面白いと思ってもらえれば嬉しく思う。

音楽の話のスタートはいつも「何も思うことがない」。何もないところから手探りで書いている状態である。

ミュージックセリエル、そして偶然性の音楽

 「4分33秒」。音楽界に波乱を巻き起こした曲である。一般的にピアニストが演奏することが多い曲で、(絶対にピアノだと決まっているわけではない)3楽章に渡りタセット(休止)と楽譜に記述されている。つまり楽音は一切登場しない。沈黙の音楽として私は高校生の頃から認知していた。知った当初はあまりに衝撃的で、音楽とは認めたくないあまりに非難ばかりをしていたが、今はやや考えが改まった。その話については後ほど記述する。

 どうしてこのような極端な音楽が登場したのか、その流れは同時期に流行したミュージックセリエルと深い関係がある。

 戦前はロマン派の流れから、ドイツに負けないフランスらしい音楽をというわけでドビュッシーに代表される色彩豊かな印象派音楽がフランスで流行、ドイツではロマン派の流れを引き継いだシュトラウスを代表する後期ロマン主義が、確立された形式、和声、巧みな管弦楽法を重んじたドイツ音楽として最後の輝きを放っていた。そして懐古的な原始主義といわれるストラヴィンスキーの音楽もこの時期であり、民族音楽を取り入れたバルトークの音楽も同時期、さらに無調音楽として有名なシェーンベルクウェーベルンなどの音楽家もほぼこの時期である。このように20世紀付近の音楽というのは一概にこうだとは述べられないほど様々な方向の音楽が登場し、混沌としていた。

 今回この中で注視したいのは、シェーンベルクの12音技法である。調性に代わる音楽の方法論として無調の12音技法を確立させた。これは12の音を1つずつ使って並べた音列を半音ずつ変えていき、12個の基本音列をつくる。そしてその反行形を作り、さらにそれを基に逆行を作り、反行形の逆行形から12個の音列を得てトータル48個の音列を作り、曲を作るのが12音技法である。理論立てられたこの方法で音楽としての統一性を得ている。20世紀音楽は、シェーンベルクによって開拓されたといっても過言ではないだろう。

 そしてこの無調の流れはシェーンベルクの弟子のウェーベルンに引き継がれる。ウェーベルンの後期作品では部分的に音価をセリー的に扱ったものもある。シェーンベルクの12音技法は音高に関しては斬新な方法で調性に打ち克つ論としてはかなり有効ではあったが、音価や強度等の他のパラメーターは従来通りだった。

 その12音技法の方法論の矛盾点、曖昧な部分を解決したのがオリヴィエ・メシアンである。メシアンはすべてのパラメーター、音高、音価、強度を対象にそれらを数列化し、論理構築を図った。これをフランス語ではセリー・アンテグラルといい、そのほかの呼び方として全面的セリー音楽、総音列主義などがある。最初の数列と数式を決めたあとは計算によって自動的に音楽作品ができあがる。これが世間に知られたきっかけが「音価と強度のモード」である。  

 これは、メシアンが当時の若い前衛音楽家たちを集めた現代音楽講習会の講師として滞在中のダルムシュタットで作曲したピアノ曲である。これに感銘を受けたメシアンの生徒であったピエール・ブーレーズがこのトータルセリーの第一後継者となった。

 ブーレーズによるトータルセリーの音楽というのは、メシアンとは異なる。初期こそトータルセリーの要素を含んだ曲や、ウェーベルンの様式を意識したものを作っていたが、「ピアノ・ソナタ第三番」以降の楽曲では新しい様相を見せている。2台のピアノのための「ストリクチュール第1巻」そして「ストリクチュール第2巻」。これらでは同時期に活躍していた作曲家ジョン・ケージの偶然性の音楽の要素を取り入れている。「管理された偶然性」と現代音楽史では呼ばれていた。

 完全に計算によって構築するメシアンのトータルセリー音楽とは異なり、楽章の順序を演奏者に委ねている。そして各楽章もいくつかの断片によって構成されていてその演奏の順序も自由である。しかしその音楽的な素材となっているものは、ジョン・ケージの作品とは比較にならないほど厳格に規定されている。ここがトータルセリー音楽としての「らしさ」なのだろうか。ウェーベルンの点描的なセリー主義の音楽を強く意識している様子がこの「管理された偶然性」の音楽にも現れているのがうかがえる。

 私はメシアンブーレーズのトータルセリーの音楽に関しては、その新しい方法論を確立させようとした音楽史的な流れや、意図については評価したいと考えているが、実際曲を聴いた際に全く理解ができず、色彩性があまりに乏しく感情の揺動を起こし得ない点から腑に落ちない面持ちになる。あまりに流れが読めない音列の集合体を音楽として知覚するには至らず、難解である。このように感じている人は私だけではないはずだ。そしてその難解さ故に演奏もかなりのテクニックが必要と見られる。おそらくそのことが理由で衰退していったのだろう。

 ところでメシアンについて、彼は理論立てた音楽を構築したため非常に無機質で、冷淡なイメージをもたれるかもしれないが(個人的にそう感じているだけかもしれないが)、熱心なカトリック信者であり、さらに自然をこよなく愛する一面もあった。それが現れているのが『鳥のカタログ』である。これは各曲が鳥の名前になっており、採譜した鳥の鳴き声のカタログの様相を呈している。音楽史的にはあまりこの部分が触れられない印象があるが、実はメシアン最大規模とわれるピアノ曲集がこれなのだ。そのことには僅かながら目を向けておきたい。

 先ほどの話ですでにあがったがメシアンブーレーズのトータルセリーの流れとは異なるのがジョン・ケージの音楽である。彼は大学中退後ヨーロッパに渡り、そこで出会った芸術に感銘を受けて作曲を始めた。そしてアメリカに戻りロサンゼルスに亡命中だったシェーンベルクに音楽を学んだ。初期はシェーンベルクの音楽のオマージュのようなものが多い。

 1940年頃には、グランドピアノの弦にゴムやボルトなどを挟んで音色を変化させたプリペアド・ピアノを考案する。徐々に彼独自の音楽性が現れてくる。

 そして、彼はこの時期には12音技法をマスターしていたようだ。それをさらに確率的に変調させてその可能性を開拓していた。そして1945年に鈴木大拙に出会い、禅を2年学ぶ。東洋思想に触れた契機がここにある。その後に中国の『易』を学ぶことで偶然性の音楽へ結びつくこととなる。

 この時期に彼が無響室を体験していることも興味深い。無響室で完全な無音を体験したのかと思えばそうではなく、彼はそのときに体内からの音(心臓の鼓動音)を聴き、沈黙を作ろうとしても不可能であることを知ったと言われている。

 東洋思想をもとにつくられたのが「易の音楽」であり、これは貨幣を投げて音を決めた。これが不確定性音楽のできる契機となった。不確定性の音楽は偶然性の音楽の一種であり、これは演奏や鑑賞の過程に偶然性が関与するため、演奏の度に異なるものになる。「易の音楽」の場合は作曲の際に偶然性が関与するが、演奏の際にそれがないため厳密には不確定性の音楽とは呼ばれず、「チャンス・オペレーション」といわれる。

 そういった流れを経て1952年に偶然性の音楽、ケージの代表作の1つである「4分33秒」が発表された。

 ちなみに、1950年には図形楽譜(図形譜)ができる契機となる出会いがあった。ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会場でケージとモートン・フェルドマンが偶然出会ったのだ。それまでセリー的な技法や伝統的な和声法を用いた曲を作っていたフェルドマンだが、徐々にその体系とは異なる曲を作り始める。そしてグリッドを用いたり、一定の時間において演奏する音の数を記したりするなどをして図形楽譜を生み出し、それを使用して様々な試みを行ったといわれている。

 フェルドマンはこれにより偶然性の音楽や不確定性の音楽に非常に影響を与えた人となるが、フェルドマン自身は、演奏家に好き勝手に楽譜を解釈され意図しない方向へ曲が変化するのを許容できず、70年代にはこの記譜法を放棄する。

 私も、図形楽譜のような大層なものは書いたことがないが、アクースマティック音楽のような現代的な曲を制作する際は必ず楽譜のようなものを作っていた。トラックごとのイメージをそれぞれ丸や点、線に置き換えて並べるのだ。クレッシェンドやフェルマータ、英語説明や数字など様々な表記法が混在しているもので、自分はこれを見ればおおよそどのような曲にしたかったのか見当がつく。そして完成した音楽をアクースモニウムで万一他の誰かに演奏してもらうことになった場合は精緻し、より体系化させた楽譜のようなものを渡すかもしれない。ところが、演奏された音楽が自分の全く意図しないひどいものになったとしたらどうするだろうか。やっぱり憤慨するかもしれない。そう考えるとフェルドマンの心境は少なからず理解ができる。彼の意図した図形楽譜の位置づけというものは、あくまで従来の五線譜の表記法では表記できなかったジャンルの音楽を表記するためにつくったものであって、決して演奏者による自由な解釈の誘引や、解釈の幅を拡張するためのものとは考えていなかったのだろう。それでは楽譜の言語性の価値を踏み躙ることになる。

 「4分33秒」、偶然性の音楽の話に戻る。私が高校時代に書いた小論文では以下のように意見をしている。

 

[ アメリカの作曲者ジョン・ケージは、音を一切出さない「4分33秒」という曲を作った。彼はこの曲をオーケストラで演奏した。ピアノのふたの開閉をする以外に演奏者の動作はなかった。観客は音のない「音楽」を4分33秒の間聴いた。これは音楽作品の在り方を私も含め、多くの人に改めて考えさせられるきっかけになった。この曲は、沈黙の音楽として二十世紀の音楽界に波紋を巻き起こした。

 このことについて賛否両論あるが、私は、音楽として考えた場合にはこの曲を音楽とは言えないのではないかと考える。音は音楽の根本的な要素であって、静寂のみを素材とすることは音楽の否定をすることになりかねない。ここでいう静寂とは、無響室のような全く音のない環境をいっているのではない。かすかな音響が存在する音空間を指す。静寂は、人に安らぎを与え、美しさを感じさせる。音楽が存在するためには静寂は不可欠なものである。そして音楽は、まず静寂を美しいと認めるところから始まるものだ。作曲をする時、気に入らない旋律があると消し去ってしまう。これは、その旋律よりも静寂に戻した方が美しいと認めたことになるのだ。音楽作品もまた、静寂が始めにあり、演奏があって全て終わった後に再び静寂が訪れることで成り立っている。音楽作品の価値もまた静寂に委ねられており、音は最終的には静寂に打ち克つことができないのだ。このような意味で静寂は音楽の基礎といえる。そして音楽は静寂の美に対立し、それへの挑戦によって生まれたもので、音楽を創造することは静寂の美に対して、音を素材とする新たな美を追及することである。

 つまり、音楽作品には静寂を基礎とする音が必要なのだ。ジョン・ケージの「音楽」は自然を模倣し、非常に精神性が高いものであるという点で芸術だとは言えるが、静寂に克つために音を素材として使うことをしていないため、音楽だとは言い難い。ただ、静寂の美を人に再び気づかせるきっかけをもたらした点で彼の作品は認められるべきである。](『音楽作品とは』よりl12-32抜粋)

 

 根本的な総意からまず覆すが、さすがに音楽作品として認められているからには音楽ではないと意見するのは今や厳しい。「4分33秒」は紛れもなく音楽作品である。だがしかし、「4分33秒」が登場するまでの「音楽作品」というのは、上にもあるように静寂を基盤として楽音が存在することで成り立つものであったことは確かである。ところが、ケージはその静寂に存在する音も素材として捉えたのであり、ここがこの音楽作品としての要である。従来の「音楽作品」の定義からすれば確かに「音楽作品とは言えない」とも言えるのだが、「4分33秒」は従来とは全く異なる新しい音楽の枠組みを構築したのだ。

 なぜ当時の私が頑なにこの音楽を拒んだか少し釈明をすると、楽典や和声法を学んでいる真っ最中でまさに従来の音楽の規則に呪縛され、苦しめられていたからである。古典的な規範に囚われ雁字搦めになっていた私は、ケージのあまりの天才っぷりに驚嘆し、妬んでいたのだ。

 音高や音価、強度を選定する作曲家のある種の楽しみ、そして苦しみを丸々取り去ってしまった「4分33秒」。実際に鑑賞をすると、やはり普段ポピュラー音楽や印象派以前のクラシックに慣れ親しんでいる私は拒絶をしてしまうが、サウンドスケープという概念で捉えるともう少し違った感覚で捉えることができる。ただ「4分33秒」ができた時代にはその概念はないし、サウンドスケープは芸術音楽とはまた少し違った方向性(芸術というよりデザインに近い概念)であるためあまりここでは語らないこととする。芸術音楽として鑑賞した場合には、音楽の新しい枠組みを構築してしまったケージの偉大さにやはり嫉妬心を覚える。

 和声法に始まった曲作りの際の規範構築は、大きく見るとトータルセリーまで上りつめたヨーロッパの流れと、全てを開放し偶然に任せたアメリカの偶然性音楽という流れになった。当時は思いもしなかった人が多いが、音楽史として流れを辿ってきた私にとっては、あまり意外性のない当然のような結果だったと考える。

 しかし、それ以降の様々な音楽や現在溢れている音楽を耳にしても、今後どのような展開があるのか予測できないでいる。どちらかというと音楽の発展はもう止まってしまったのではないか、という意見に賛同している状態である。

 

参考文献

ヴァルター・ギーゼラー『20世紀の作曲 現代音楽の理論的展望』 音楽之友社

海老澤敏、上参郷祐康、西岡信雄、山口修『新編 音楽中辞典』 音楽之友社、2003年

上尾信也『音楽のヨーロッパ史』講談社現代新書2006年

大町陽一郎クラシック音楽のすすめ』講談社現代新書1992年

岡田暁生西洋音楽史中公新書2008年

岡田暁生『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』中公新書2009年

カールハインツ・シュトックハウゼンシュトックハウゼン音楽論集』 現代思潮新社

松平頼則『新訂・近代和声学 近代及び現代の技法』 音楽之友社

宮下誠『20世紀音楽 クラシックの運命』光文社新書2006年