万華鏡の世界

自分と自分と時々君

『千住博の美術の授業 絵を描く悦び』を読んだ。

 

千住博の美術の授業 絵を描く悦び (光文社新書)

千住博の美術の授業 絵を描く悦び (光文社新書)

 

 新書という読みやすい類の本でこれだけの内容が書けるのはすごいなと純粋に驚いた。一生何かを続けていくということがどれほど難しいことなのかが分かる一冊になっている。そういう意味で、絵描きでなくとも何かをつくる人、つくろうとしている人には是非薦めたい。私は創作面ではやる気のない人種になるため、この本を読むのは正直しんどかった。何故なら、「一にも二にもまず描け(つくれ)」という話であることが嫌というほど分かるからである。この本で惜しいなと感じたのはそういった点で、つまり、何か好きなものが明確にある人でないと本の内容がまるで意味を成さないということだ。好きなものを見つけてさえいれば、この本は非常に実践的でありがたい内容になっている。

詳しい内容について触れたいところがある。カバーでも引用されている箇所だが、絵画とイラストの違いとは何なのかといったところである。イラストは記述的、つまり説明的な性質をもっているのに対し、絵画は「問いかけ」であるといったところが実に興味深い。そういえば、ある詩人も「詩は説明になってはいけない」と述べていたのを私はふっと思い出した。

結局芸術とは答えの返ってこない永遠に向かう問いかけのようなものです。 

この部分を見たときうーんと首を縦に振り唸った。音楽美学とはまさにその性質の関連として生まれたものであるだろうし、優れた作品には多くの批評文がつくなということが分かっているからである。芸術が何らかの「答え」であるとしたら、誰もが考えることを放棄するであろう。「問いかけ」であるということは、鑑賞者に能動性を生じさせるということである。それは鑑賞の意味を生むことにもなっていて、芸術が鑑賞ありきで成立するということにも繋がっている。本著で言うところの「説明になってはいけない」というのが写実的になってはならないと同じ意味なのかというところまでは分からなかったし、音楽が記述的になるということはなさそうな気がするため、理解は浅いものになっているが、この辺りのことは間違いなく重要なポイントであるなと確信している。

日本美術は疎か西洋美術でさえ良く知らないため、美術に関することを呟ける自信はないのだが、この本を通して分かった日本美術画の定義は、使う素材が岩絵具や墨といったものであり、かつ日本画的な思想のもと描かれているといったところであろうか。日本画的思想とは例えば、「余白」の使い方に現れるものである。

 現代の欧米では、塗り残しはたんなる塗り残し。つまり画面は合理的遠近法にのっとりながら「埋めて」ゆくもの、という考え方が大勢を占めています。描いているところにこそ価値があり、それは認識の結果であり、風景画とは駆逐し、未知から獲得していった知的征服物の象徴だったのです。

しかし、私の作品の場合、塗り残しが「空」であり、「画面中央の鏡のような水たまり」だったのです。つまりそこがすべての生命の誕生と宇宙の神秘を現す雨の存在の象徴としての雲、そしてすべての生まれ出た海なのです。つまり塗り残しこそ、画面の中で最も大切な部分だったわけです。

音楽の場合、ジャンルによるものの考え方というのはなかなか見えにくい。西洋音楽と日本音楽では相当な差があるが、ジャンルが新たに生まれ、二、三のジャンルが混合されていることもしばしばあるため、例えばポップスとロックの差というものは極めて小さいものになっている。美術も禁則(というのかは知らないが)を破ることが当たり前になった現代では、その意味はあまり見えてこないかもしれないが、この本に登場する絵の場合はそれがはっきりとしているため、思想の重要性にも繋がっているのが分かる。私が注視したいのは、ジャンルごとの定義(思想)をすることではなく、ものの見え方、考え方は作品に表れ出るといった部分である。そのような意味では、やはり作品の基盤にある観念といったものは必要不可欠である。具体的には、例えば音楽にも休符というものが存在する。日本画的な意味での余白とは異なるが、休符をどのような意味で扱うのかという問題は十分に考える余地のあることだと気付かされる。

本全体の印象としては、肯定できる部分が多く、素晴らしい著書であることは認めるが、実践的な部分に関してはあくまで一つの方法でしかないということには気をつけたいし、大前提として「自分にはこれだ、これしかないと言える好きなものがある」という人向けな本である。つまり、これから何か探していこうという人にとっては酷な内容であり、逆に好きなものがあって、毎日それに向かえている人は精神論的な箇所は読み飛ばしても問題なさそうである。

一つ腑に落ちなかった内容がある。「美しいものは国境を超える」といった箇所である。美には様々な形態があり、確かに国境や時代を超える美しいものは偽りなく美しい。しかし、美しいものすべてが国境や時代を超えるわけではないし、その差から前者が優れていて、後者は紛い物であると決めつけるのはどうなんだろうと今の私は考えている。認知のしやすさが美しいという感覚を呼び起こしている可能性がある。しかし、その感覚でしか鑑賞ができないというのは芸術美の追求において足枷になっているような気がしてならない。これは非常に非情動的な考え方であるし、実に極端なものであるに違いないことは承知の上だが、もっと美というものは広く捉えられるべきではないか、その可能性を探っていく必要があるのではと思うのである。

所謂普通のクリスマスイブを過ごしてみた。

私は日本のクリスマスという行事が不自然に見えて仕方がなく、偏見の眼差しで日本人のクリスマスの過ごし方を捉えている節があり、時にひどく侮蔑的にさえ見てしまうことがあるのだが、実際のところそのような過ごし方は面白いんだろうか、という疑問があった。そもそも「普通」とつけてしまうからには大半の人に当てはまっていなければならないが、とりあえず私が普通と呼んでいるものを示しておこうと思う。好きな人と出かけるかご馳走を作るかして何らかの記念日やお祝いという形で過ごす過ごし方を私は普通と呼んでいる。

ところで、他の日は気にならないのになぜクリスマスだけこうも気になってしまうのだろうか。おそらくだが、それは幼少期の過ごし方が影響しているのではないかと考える。クリスマスは昔、一年で最も不思議で幸せな日だった。何故かサンタという謎の人物からプレゼントが贈られてくるし、その前日には良く分からない謎のお祝いとしてご馳走が出た。ケーキが食べられる、ご馳走が食べられる、おまけにプレゼントがもらえる。理由なんて必要なかった、それは幸せなことに違いなくて、そしてその幸せは当然他の人も同様に与えられるものだと思っていた。

でも、幸福の色はひとつでないことを知り、(幸福は他の人も同様にもたらされるわけではないというショックがあり)サンタは親の「愛」によるものだと知り、お祝いは一応キリスト教と関係があることを知ってからは不信感が募るようになってしまった。形骸化されたものというのはやはりやっていて的を射ないなと感じてしまうし、それを楽しむにはそれに相応しいだけの幸福の自覚がベースに必要そうである。私はそもそも祝い事が好きではないし、理由のない祝い事なら尚更そうであり、さらに幸福を恒常的なものとして自覚するということは苦手で仕方がない。そういうわけで、クリスマスを「祝う」のにかなりエネルギーを要するため、クリスマスと託けて料理をする以外のことは普段していない。

私が普通のクリスマスイブを過ごすきっかけは、彼のご両親の心遣いによるものだった。そのため、ノーということができなかった。誘われたからには楽しもうとしたが、結果から言うと、彼のご両親には申し訳ないが、いつもの過ごし方の方が充実しているように感じた。

24日、その日はクリスマスコンサートを聴きに行った。内容はミーハーといえば良いのだろうか、有名どころしかない曲目が並び、その時点で私は少しげんなりした気持ちになってしまっていた。しかし、思いの外演奏は良く、ラインナップの自由さからは想像できない理知的な演奏だったように思う。ただ楽譜通りすぎるというか、もう少しその行儀の良さをコントロールできる範囲で上手く外せていたらより良かったかもしれない。ソプラノ歌手の歌声でビブラートの揺れ幅が広すぎて若干恐怖を覚えることがあり、また、曲によって音のばらつきが見られることがあったがアンコールに何度も応えるような演出と、曲数の多さを考えると値段相応かそれ以上のように思えた。ホールは文句のつけどころがなく、綺麗に音が伸び、音と音が溶け込むような感じがして心地良かった。

この時点で帰宅してご馳走を作って食べていればもう少しクリスマスが楽しいものだと思えたかもしれないが、この後が結構大変だった。軽食を済ませた後に、六本木ヒルズに向かい、列に並んだ。プロジェクションマッピングや、プラネタリウムのあるイベントがあるとのこと。私のために彼のご両親が考えてくれたプランだったため、行くことにしたが、90分待ちという予想はしていたけどやっぱり待つなあというだるさに早速見舞われた。そして楽しめる人もいるかもしれないので、行った感想をざっくり言うと、私には合わなかった。あんなにお金をかけても人を楽しませることができないのは逆にすごいなと思えるほど、無駄にお金のかかったイベントであった。ちなみに彼のご両親も不満気であった。

その後に見た宇宙展もあまり食指は動かなかったが、プラネタリウムもどきよりは全然マシで、インタラクティブ・デジタル・インスタレーションと呼ばれる体験型の作品は評価できた。よく出来ていたが、音楽に関していうならスピーカーの数を増やし、会場を包み込むような感じに設置し、音楽をそれ用に立体的に制作すれば、もっと映像との一体感が楽しめたのではと思う。

一通り「楽しんだ」後、銀座のイタリア料理のお店で夕食。クオリティはかなり高かったし、通常のコースであればコスパも良いんじゃないかと思えるほどの料理であった。(クリスマス用のコースは少し高めに設定してあるような気がしてしまった。)ワインが美味しく、食事も美味しく、話も楽しい。こういう体験は久々だなと心から喜べた。そして銀座の街を歩き、なぜかクリスマスケーキを購入し、帰宅。

印象的だったのは、並ぶ人達の顔が皆幸せそうだったことだ。なぜ、あんなに並んでおきながら幸せでいられるのか。そして、なぜあの無駄にお金がかかったセットをそれなりに楽しめたのか不思議だった。つまるところ、なぜ日本人がクリスマスを楽しめるのかという疑問が湧いただけの1日であった。あんなに大変な思いをしてまでして、クリスマスを楽しもうとする人のことは理解できないが、人生は楽しんだ者勝ち、というわけで楽しめる人は強いなと感じた。

クリスマスに対して私は否定的な目で見ているように思われるかもしれないし、実際そういう面があるのは拭えないが、楽しめるなら楽しんだ方が良いとは思っているため、クリスマスなんて行事がなくなれば良いと思っているわけではない。

ただ、私はなんとなくな「中身のない」お祝い事であるクリスマスにやはり違和感を覚えているに違いない。私が子供にクリスマスという「幸福な」イベントをするかと言われると首を傾げてしまう。心から祝えない行事なんてやったところで子にもそれがバレてしまうんじゃないかと恐れているからだ。私と同様のクリスマスショック的な魔法から覚めてしまうという経験をさせたくはない。「失う辛さより、何もない寂しさなら耐えていける」といった心から来るんだろうか。何にせよ、幸せは演出するものではないと思う。もっと自発的な何かが良い。

行動が上手くできないため、改善を図るの巻

この行動力のなさは人格的なものなのか、病気のせいなのか未だに判断がついていない。「やる気がない」というのは言い訳になるが、病気をする前に難なくできていたことができないとなると、やはり病気あるいは薬のせいでやる気が出ないのではという気がしてしまう。

稀に行動できる時もある。行動をするまでに言葉にならない葛藤があり、それを打ち破れるだけの気力があるとそこでようやく行動できる。しかし、行動できたところでその状態を維持できるかというとこれもまた微妙で、集中力が続かないために行動し続けることも困難である。この2つの問題が解決できれば、やりたいことをもっとできるようになるのに、と普段考えているのだが、どうにかならないのだろうか。

読書に関しては、昔はさほど気合を入れて読むということがなかったように思う。児童文学や新書という比較的読みやすい類の本を読んでいたからというのもありそうだが、最近その手の本を読んでも苦しいことが多いのを考えると、やはり読む力が衰えているように感じる。気力30ぐらいでだらだらと読めるようになるのが理想的だが、果たしてそれが今の私で可能なんだろうか。

昔はやりたいこととやらなければならないことを全てやるために時間割を作っていた。やりきれない時は睡眠時間を削ってでもやり通すというスタイルであったため、それが病気になる一要因になっていたのではないかと今は分析している。時間割を作ってそれを遂行することは、一見合理的であるように思えるが、これは精神衛生のことを考えると実に非合理的であったと考える。しかしここにヒントがあるのではないだろうか。何パターンか時間割を作っておけば実行できる確率は上がるし、やる気を最大限活かせそうな気がする。

過去の失敗から同じ方法を取ることは避けてきたが、そろそろ再挑戦しても良いような気もしてきた。もちろんやり方は少し変えて、気が乗らない日は思い切りだらだらするようにしたいと思う。

というわけで時間割の作成に励むことにする。

『音楽美学』について

 

音楽美学<野村>

音楽美学<野村>

 

 以前紹介した本をようやく読み終えた。

emi0x0.hatenablog.com

 読むのに丸1年もかかってしまったわけだが、どうしてそんなに遅読だったかというと、もともと読むのが得意でないのと、美学的アプローチに全く馴染んでいなかったからというのがある。本をパラパラと開けば分かるが、聞いたことのない音楽批評家、そして耳にしたことはあるが、詳しくは知らない哲学者の名前がぞろぞろと出てくる。ここで、それぞれの人物についていくらか知っていれば読みやすかったのだろうが、全く知らない状態で触れた私にとって、この本のみであらゆる思想や捉え方、主義を把握しようとするのは無謀であったと思われる。

そもそも「音楽美学」とは何なのか、何をするものなのかというと、本の頭には次のように書かれてある。

音楽美学、一般美学の一分科は、特に音楽における内容と形式との探求、ならびに音楽の表出力と表出法に関する問題を問うことを課題としてもつ。古代やことに中世が音楽の本質に関する哲学的な問いを音楽のあらゆる理論的な考察の冒頭においたが、現代的意味での体系的音楽美学は十八世紀以来初めて成立する。音楽美学は音楽理論(和声学、作曲学、楽曲分析)からは次の点で区別される。すなわち、それは個々の音楽作品の制作や構造についてはあまり問題にせず、むしろ一つの全体としての、与えられたものとしての、美的とか魅力的とか醜とか崇高とか(それらに対するあらゆる部分的諸前提とならんで)の諸範疇にしたがっての、人間精神における音楽の反映を対象とするものである―あるいは少なくとも対象とすべきであったのである。

音楽美学は一般美学の一分科で、とくに音楽における形式と内容の関係、音楽の表出力と表出法に関する問題などを研究する。

イマイチ釈然としない部分はあるが、「 音楽とは何か」といった定義や、「音楽は感情を表現するためのものであるか」といった問いなど、哲学的な問いはほぼここで検討されるべき問題として扱われるという認識で良いと思う。では音楽哲学とどう違うのかというと、少なくとも音楽哲学は音楽美学にとどまる必要はなく、音楽論理学、音楽倫理学でもあるべきであろう、とされている。

本著では音楽美学の定義から、音楽美学思想史において音楽とはどのようなものであったかということや、形式や内容、様式、実践といったところで音楽美学的な問題を取り扱い、最後は音楽の本質について迫るという形で締めくくられている。

今日様々な音楽が存在するが、普段音楽に触れる人は「音楽とは何か」という問題にぶつかるのだろうか。一般的には何の疑問もなく西洋音楽的な音楽を音楽作品として捉えているように思う。楽典的に言うと、音楽とはリズム、メロディ、ハーモニーの3要素から成り立ち、作曲、演奏、鑑賞の三者によって成立する。もう少し広く捉えると、連続する時間の流れの中で享受する聴覚的な時間芸術であるといえる。しかし、よくよく考えてみればそれだけでは不十分であることに気がつく。あるいは、もっと根本的な音楽の特徴が見えてくるかもしれない。私の場合、音楽に触れれば触れるほど音楽の定義や本質、特徴を考えざるを得なかった。良い音楽を作りたい。良い音楽とは何だろう、そもそも音楽とはなんだろう。そのように自然と生まれた問いだった。似たようなところで躓いたり、立ち止まったりした人には音楽美学を薦めたい。きっと学ぶ前より音楽について深く知ることができるし、自分が音楽とどのように関わりたいかという部分でも見えてくるものがあるように思う。

 

音楽美学の主方向の体系的分類は3つに分かれる。

A、音楽の原理や法則は音楽自体のうちにある

これにさらに音楽を①一種の論理学のように考えるものと、②形式主義的と言われるようなものと、最近の③力学的な立場に立つものとを分けることができるのである。

 

B、(AとCの中間)音楽を言語に関係させて考える。

①音楽を一種の言語とする②本来言語を伴うものとして考える、さらに前者においても、音楽を象徴として、いわば超概念的な言語と考えるものと、一種概念的な、悟性的にも把握できる性質をもつものなることを主張する立場とがあり得る。

 

C、音楽の原理や法則はそれ自体としては音楽外のものである

音楽を何らかの意味であるいは世界を、あるいは人間を反映ないし表現するものとするのである。

 

音楽美学思想史、音楽の内容についてはまとめようにも長くなってしまうので割愛。

以下メモ書き。

現代の音楽美学は即物主義的、客観主義的、力学的、エネルギー説的。気分美学・情緒説に反対し、単なる形式理論を退け、音楽における純音楽的なものの把握に全力を集中する。楽曲の詳細な専門学的分析を通じて、音楽の本体を力性やエネルギーに還元し、その緊張と弛緩の過程をできるだけ客観的に記述している。

現在のわが国の一般音楽愛好家の美学的立場はロマン主義的であるのに対し、作曲家や演奏家の幾人かの立場は現代の力学的立場をとっている。

ロマン主義的立場から見たロマン主義的音楽美学は主観主義的、感情主義的、詩的、文学的等々によって特色づけている。論理的、悟性的なものに対して感情的なものを強調し、音楽に情緒の充溢、有頂天の感激を求め、好んで音楽を詩的ないし文学的に解釈しようとした。

音楽作品には必ず何らかの秩序があり、しかも現代音楽美学はそういう秩序を学的にある程度明示することができるようになった。―しかし、ただ音楽の一面を学的に捉えたのにすぎないのである。音楽における秩序の問題こそ、われわれの美学の根本問題であり、美学がそれを知性的学的に探求するのに対して、音楽の芸術的鑑賞においては、秩序は主として直観的と同時に多分に感情的に把握される。

 

ロマン主義的音楽美学を完全に否定できるかどうかについては次のようにある。

標題音楽、映画音楽、色彩音楽、具象音楽等を考慮すると、音楽は実際には音楽外のいろいろなものと深く結び合っており、絶対音楽的なものは例外と言っても言い過ぎではない。だから現実において音楽は純音楽的に聴くべしと主張しても、我々が普通に接する音楽においては矛盾を感じざるを得ない。

 

最後音楽の本質についての章があるが、結論から言うと、

「ことばは定義することができない」と同様、「音楽は定義することができない」。古代ギリシア音楽、調性音楽、伝統邦楽、ジャズ、十二音音楽、前衛音楽のそれぞれは定義可能であろうが、それらすべてに通ずる音楽の定義はもはや不可能である。

 とある。個人的にはあっけらかんとしてしまった結論であるが、その通りでもある。ということは、つまり音楽の本質について考える際、各々の音楽の定義が必要になってくるし、どのような時代のものかといった音楽の背景も単なる「背景」としてでなく、様式、形式などの「内容」として取り扱われる必要があるということが分かる。様々な音楽の捉え方を追ったからこそ辿り着いた結論であるが、やはり音楽全体を通して定義することは実は可能かもしれないという期待が捨てきれない。

と、かなり内容の濃い一冊であったものの、音楽思想史や音楽の内容についてはまだまだ物足りない感覚を覚えたため、今後突っ込んでいきたいと思う。

善く生きること

私達は日々様々なことを考えながら、そして、多様な活動をしながら生きている。普段の生活に満足している人は多くはないかもしれない。私達が生きていく上で、より良い生き方とは何なのか考えたい。この記事が各々の生活に何か変化をもたらす契機になると良いなと思う。

思考をするだけで生き方に影響を及ぼせるのか、と読んだ人は思ったかもしれない。確かに生活を突然ガラリと変えることは難しいだろう。しかし、どう生きるかはどう生きたいかという思いで変わってくるものだと私は信じている。

 

そもそも生きるとは何だろうか。私達は意識をせずとも呼吸をしている。そして私達の体内では様々な活動が勝手に行われている。そんな体の活動とはよそに、意識の中では様々に知覚し、体験をしている。これらの活動を統合して生きるという言葉になっているといえる。

 

「善く生きること」という話は実は知人の記事が発端である。

silentterrorist.hatenablog.com

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私よりも丁寧に緻密に書かれているため、是非目を通して頂きたい記事であるが、彼の記事を全て把握するとなると相当の文字数をかけて読むことになる。であるから、もう少し噛み砕いてみたらどうなるだろうかという実験をしてみる。

 

簡単にまとめからざっくりいくと「善く生きること」とは善く経験することである。その経験が一体どんなものかというと、自分が快くやれる活動を指している。快くやれる活動にも種類はあるとされるが、とりわけ「自分との調和を為している活動」である。いきなり分からなくなったかもしれないが、そんなに難しいことではない。例えば、私達は何かの理想を持ってそうなりたいがために活動することがしばしばある。この場合、理想と現実のギャップに苦しむこともあるし、目的に縛られてしまう。こういった活動はごくありふれた普通の活動であるか、自分にとって良くはない活動となる。そして、そういった活動は自分と調和的でない活動であるといえる。

では、そうでない活動が具体的に何なのかというと、それは人にもよるのだが、「気ままに遊んでいるとき」が最も典型的な善い活動であるとする。具体的には散歩のようなものである。また、我を忘れて知的探求をするような営みもそれに該当する。結果のみを良しとするものでなく、過程を楽しめるものというのが特徴的である。そして、この観照的な活動とされるものは、意味をもたない。意味や目的が必要とされるものはそれだけで何らかの卑しさを引き入れてくるように私は思う。先に挙げた善いとされる活動(観照的活動)には、その卑しさがなく、意味や目的を明示する必要すらない。そのような活動は理想と現実といった主客の分離や対立がなく、「自分との調和を為している活動」であるといえる。

より良く生きるには、自分が楽しくできることや快さが何なのかをぼんやり考えていれば良い。そして実行する。そのためにする活動(時間の確保や、最低限生活できるだけの活動)はその時点で目的を伴ってしまい、その点において観照的活動が、不完全であることを示しているが、贅沢な時間を過ごすためのものであるのだから、その活動も二義的な善であると捉えたい。

善い経験は虚無感を生まない。空虚な毎日を送る人も、ただなんとなくぼんやりと生活している人も、一度立ち止まって自分にとって快い活動とは何なのかを是非考えていただきたい。善い経験は周囲にも良い影響を与える。快い気持ちでいる人が側にいることは、リラックス効果をもたらすからである。私達は、自己充足的な生き方を共にすることでさらなる充足が図れるのである。

 

本当にざっくりとしたまとめしかできなかったが、まとめる前よりもクリアになって自分は満足である。要約にあたって自分の解釈でしか書けない部分というものが出てきてしまったため、本人の意図とは異なる部分もあるかもしれないが、その場合はご指摘願いたい。

やりたいことを書き出してみる

まずは音楽について考えたい。以前「音楽に求めていること」で「最低限やりたいことはある」と言っていたが、具体的に言葉にしたことがなかったため、書いてみる。

 

emi0x0.hatenablog.com

はじめに、音楽がなにものであるかを自分なりに明らかにしたいという欲求がある。というかそれがもう音楽に求めていることで一番多く占めている欲求であろう。既存の音楽を理解し、味わい尽くしたい。音楽における美とは何なのか、そして音楽はどのように、あるいはなぜ人々を魅了するのか知りたい。

つぎに、音楽の成り立ちを理解できたら、自分で再構築したい。どのように音楽が音楽として成り立っているのか、自分で表現できて初めて真に理解したと言える気がする。

そして、自分が心地良くなれるポイントを探りたい。気持ち良いと感じる音楽を作りたい。音楽に関しては、書き出してみればなんてことのないように思えるほどである。

 

では音楽以外でやりたいことを考えてみる。

これは音楽とは少し離れるし、ここでは言えないのだが、今中断しているあることを推し進めたい。これは絶対に叶えたい、というか叶えられると思っているからそんなに心配していない。音楽の方がずっと不透明でやりにくい。

芸術に関しても、もっと理解を深めたいと思っている。特に西洋美術には興味津々だ。文学もなかなか踏み込めていないが、面白そうな分野である。いつかエンデの『はてしない物語』を原著で読みたいが、まず本が手に入らないし、ドイツ語に触れたことが一切ないのでやるか分からない。

あとは、ハンドメイドでコンスタントに作れる何かを作り続けたい欲求がある。いろいろと本を見て作れはするものの、なかなか自分自身のレシピで作るということができずにいる。どうやったら自分で作ったと胸を張って言えるものが作れるのだろうか。

 

私が一生のうちでやりたいことってこんなものだろうか。少なくとも今は思いつかない。皆も自分のやりたいことを書き出してみると面白いかもしれない。

やりとり

勝手に期待して、期待が裏切られて苛立ちを覚えた。

誤解だよと人はいうが、誤解でもなんでもなかった。

単に私はその人々にとって存在しなかったのだ。

その程度だっただけの話。

それは一向に構わない。

ただ、それを人は何故か隠そうとした。

それが全く許せないのであった。

何故偽善者振るのだろうか。一体何のために。

 

ある人はメッセージカードを添えたプレゼントを渡してきた。

心の篭った演出だな。嬉しいものである。

しかし、その文章の型を見るなり、以前他の人に贈った時のメッセージとほぼ同じ型をしていたことに気づき、呆れた。

中途半端なことをするぐらいなら始めからメッセージカードなんてよこすな、と思った。

私はメッセージカードを渡さなかった。きっとそれで正解だったと思う。

 

人が偽善者振るのは相手のためでなく、自分自身のためなんだろう。

しかしそんな見栄のために私を巻き込まないでいただきたい。

そう切に願う。