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万華鏡の世界

自分と自分と時々君

行動が上手くできないため、改善を図るの巻

この行動力のなさは人格的なものなのか、病気のせいなのか未だに判断がついていない。「やる気がない」というのは言い訳になるが、病気をする前に難なくできていたことができないとなると、やはり病気あるいは薬のせいでやる気が出ないのではという気がしてしまう。

稀に行動できる時もある。行動をするまでに言葉にならない葛藤があり、それを打ち破れるだけの気力があるとそこでようやく行動できる。しかし、行動できたところでその状態を維持できるかというとこれもまた微妙で、集中力が続かないために行動し続けることも困難である。この2つの問題が解決できれば、やりたいことをもっとできるようになるのに、と普段考えているのだが、どうにかならないのだろうか。

読書に関しては、昔はさほど気合を入れて読むということがなかったように思う。児童文学や新書という比較的読みやすい類の本を読んでいたからというのもありそうだが、最近その手の本を読んでも苦しいことが多いのを考えると、やはり読む力が衰えているように感じる。気力30ぐらいでだらだらと読めるようになるのが理想的だが、果たしてそれが今の私で可能なんだろうか。

昔はやりたいこととやらなければならないことを全てやるために時間割を作っていた。やりきれない時は睡眠時間を削ってでもやり通すというスタイルであったため、それが病気になる一要因になっていたのではないかと今は分析している。時間割を作ってそれを遂行することは、一見合理的であるように思えるが、これは精神衛生のことを考えると実に非合理的であったと考える。しかしここにヒントがあるのではないだろうか。何パターンか時間割を作っておけば実行できる確率は上がるし、やる気を最大限活かせそうな気がする。

過去の失敗から同じ方法を取ることは避けてきたが、そろそろ再挑戦しても良いような気もしてきた。もちろんやり方は少し変えて、気が乗らない日は思い切りだらだらするようにしたいと思う。

というわけで時間割の作成に励むことにする。

『音楽美学』について

 

音楽美学<野村>

音楽美学<野村>

 

 以前紹介した本をようやく読み終えた。

emi0x0.hatenablog.com

 読むのに丸1年もかかってしまったわけだが、どうしてそんなに遅読だったかというと、もともと読むのが得意でないのと、美学的アプローチに全く馴染んでいなかったからというのがある。本をパラパラと開けば分かるが、聞いたことのない音楽批評家、そして耳にしたことはあるが、詳しくは知らない哲学者の名前がぞろぞろと出てくる。ここで、それぞれの人物についていくらか知っていれば読みやすかったのだろうが、全く知らない状態で触れた私にとって、この本のみであらゆる思想や捉え方、主義を把握しようとするのは無謀であったと思われる。

そもそも「音楽美学」とは何なのか、何をするものなのかというと、本の頭には次のように書かれてある。

音楽美学、一般美学の一分科は、特に音楽における内容と形式との探求、ならびに音楽の表出力と表出法に関する問題を問うことを課題としてもつ。古代やことに中世が音楽の本質に関する哲学的な問いを音楽のあらゆる理論的な考察の冒頭においたが、現代的意味での体系的音楽美学は十八世紀以来初めて成立する。音楽美学は音楽理論(和声学、作曲学、楽曲分析)からは次の点で区別される。すなわち、それは個々の音楽作品の制作や構造についてはあまり問題にせず、むしろ一つの全体としての、与えられたものとしての、美的とか魅力的とか醜とか崇高とか(それらに対するあらゆる部分的諸前提とならんで)の諸範疇にしたがっての、人間精神における音楽の反映を対象とするものである―あるいは少なくとも対象とすべきであったのである。

音楽美学は一般美学の一分科で、とくに音楽における形式と内容の関係、音楽の表出力と表出法に関する問題などを研究する。

イマイチ釈然としない部分はあるが、「 音楽とは何か」といった定義や、「音楽は感情を表現するためのものであるか」といった問いなど、哲学的な問いはほぼここで検討されるべき問題として扱われるという認識で良いと思う。では音楽哲学とどう違うのかというと、少なくとも音楽哲学は音楽美学にとどまる必要はなく、音楽論理学、音楽倫理学でもあるべきであろう、とされている。

本著では音楽美学の定義から、音楽美学思想史において音楽とはどのようなものであったかということや、形式や内容、様式、実践といったところで音楽美学的な問題を取り扱い、最後は音楽の本質について迫るという形で締めくくられている。

今日様々な音楽が存在するが、普段音楽に触れる人は「音楽とは何か」という問題にぶつかるのだろうか。一般的には何の疑問もなく西洋音楽的な音楽を音楽作品として捉えているように思う。楽典的に言うと、音楽とはリズム、メロディ、ハーモニーの3要素から成り立ち、作曲、演奏、鑑賞の三者によって成立する。もう少し広く捉えると、連続する時間の流れの中で享受する聴覚的な時間芸術であるといえる。しかし、よくよく考えてみればそれだけでは不十分であることに気がつく。あるいは、もっと根本的な音楽の特徴が見えてくるかもしれない。私の場合、音楽に触れれば触れるほど音楽の定義や本質、特徴を考えざるを得なかった。良い音楽を作りたい。良い音楽とは何だろう、そもそも音楽とはなんだろう。そのように自然と生まれた問いだった。似たようなところで躓いたり、立ち止まったりした人には音楽美学を薦めたい。きっと学ぶ前より音楽について深く知ることができるし、自分が音楽とどのように関わりたいかという部分でも見えてくるものがあるように思う。

 

音楽美学の主方向の体系的分類は3つに分かれる。

A、音楽の原理や法則は音楽自体のうちにある

これにさらに音楽を①一種の論理学のように考えるものと、②形式主義的と言われるようなものと、最近の③力学的な立場に立つものとを分けることができるのである。

 

B、(AとCの中間)音楽を言語に関係させて考える。

①音楽を一種の言語とする②本来言語を伴うものとして考える、さらに前者においても、音楽を象徴として、いわば超概念的な言語と考えるものと、一種概念的な、悟性的にも把握できる性質をもつものなることを主張する立場とがあり得る。

 

C、音楽の原理や法則はそれ自体としては音楽外のものである

音楽を何らかの意味であるいは世界を、あるいは人間を反映ないし表現するものとするのである。

 

音楽美学思想史、音楽の内容についてはまとめようにも長くなってしまうので割愛。

以下メモ書き。

現代の音楽美学は即物主義的、客観主義的、力学的、エネルギー説的。気分美学・情緒説に反対し、単なる形式理論を退け、音楽における純音楽的なものの把握に全力を集中する。楽曲の詳細な専門学的分析を通じて、音楽の本体を力性やエネルギーに還元し、その緊張と弛緩の過程をできるだけ客観的に記述している。

現在のわが国の一般音楽愛好家の美学的立場はロマン主義的であるのに対し、作曲家や演奏家の幾人かの立場は現代の力学的立場をとっている。

ロマン主義的立場から見たロマン主義的音楽美学は主観主義的、感情主義的、詩的、文学的等々によって特色づけている。論理的、悟性的なものに対して感情的なものを強調し、音楽に情緒の充溢、有頂天の感激を求め、好んで音楽を詩的ないし文学的に解釈しようとした。

音楽作品には必ず何らかの秩序があり、しかも現代音楽美学はそういう秩序を学的にある程度明示することができるようになった。―しかし、ただ音楽の一面を学的に捉えたのにすぎないのである。音楽における秩序の問題こそ、われわれの美学の根本問題であり、美学がそれを知性的学的に探求するのに対して、音楽の芸術的鑑賞においては、秩序は主として直観的と同時に多分に感情的に把握される。

 

ロマン主義的音楽美学を完全に否定できるかどうかについては次のようにある。

標題音楽、映画音楽、色彩音楽、具象音楽等を考慮すると、音楽は実際には音楽外のいろいろなものと深く結び合っており、絶対音楽的なものは例外と言っても言い過ぎではない。だから現実において音楽は純音楽的に聴くべしと主張しても、我々が普通に接する音楽においては矛盾を感じざるを得ない。

 

最後音楽の本質についての章があるが、結論から言うと、

「ことばは定義することができない」と同様、「音楽は定義することができない」。古代ギリシア音楽、調性音楽、伝統邦楽、ジャズ、十二音音楽、前衛音楽のそれぞれは定義可能であろうが、それらすべてに通ずる音楽の定義はもはや不可能である。

 とある。個人的にはあっけらかんとしてしまった結論であるが、その通りでもある。ということは、つまり音楽の本質について考える際、各々の音楽の定義が必要になってくるし、どのような時代のものかといった音楽の背景も単なる「背景」としてでなく、様式、形式などの「内容」として取り扱われる必要があるということが分かる。様々な音楽の捉え方を追ったからこそ辿り着いた結論であるが、やはり音楽全体を通して定義することは実は可能かもしれないという期待が捨てきれない。

と、かなり内容の濃い一冊であったものの、音楽思想史や音楽の内容についてはまだまだ物足りない感覚を覚えたため、今後突っ込んでいきたいと思う。

善く生きること

私達は日々様々なことを考えながら、そして、多様な活動をしながら生きている。普段の生活に満足している人は多くはないかもしれない。私達が生きていく上で、より良い生き方とは何なのか考えたい。この記事が各々の生活に何か変化をもたらす契機になると良いなと思う。

思考をするだけで生き方に影響を及ぼせるのか、と読んだ人は思ったかもしれない。確かに生活を突然ガラリと変えることは難しいだろう。しかし、どう生きるかはどう生きたいかという思いで変わってくるものだと私は信じている。

 

そもそも生きるとは何だろうか。私達は意識をせずとも呼吸をしている。そして私達の体内では様々な活動が勝手に行われている。そんな体の活動とはよそに、意識の中では様々に知覚し、体験をしている。これらの活動を統合して生きるという言葉になっているといえる。

 

「善く生きること」という話は実は知人の記事が発端である。

silentterrorist.hatenablog.com

silentterrorist.hatenablog.com

私よりも丁寧に緻密に書かれているため、是非目を通して頂きたい記事であるが、彼の記事を全て把握するとなると相当の文字数をかけて読むことになる。であるから、もう少し噛み砕いてみたらどうなるだろうかという実験をしてみる。

 

簡単にまとめからざっくりいくと「善く生きること」とは善く経験することである。その経験が一体どんなものかというと、自分が快くやれる活動を指している。快くやれる活動にも種類はあるとされるが、とりわけ「自分との調和を為している活動」である。いきなり分からなくなったかもしれないが、そんなに難しいことではない。例えば、私達は何かの理想を持ってそうなりたいがために活動することがしばしばある。この場合、理想と現実のギャップに苦しむこともあるし、目的に縛られてしまう。こういった活動はごくありふれた普通の活動であるか、自分にとって良くはない活動となる。そして、そういった活動は自分と調和的でない活動であるといえる。

では、そうでない活動が具体的に何なのかというと、それは人にもよるのだが、「気ままに遊んでいるとき」が最も典型的な善い活動であるとする。具体的には散歩のようなものである。また、我を忘れて知的探求をするような営みもそれに該当する。結果のみを良しとするものでなく、過程を楽しめるものというのが特徴的である。そして、この観照的な活動とされるものは、意味をもたない。意味や目的が必要とされるものはそれだけで何らかの卑しさを引き入れてくるように私は思う。先に挙げた善いとされる活動(観照的活動)には、その卑しさがなく、意味や目的を明示する必要すらない。そのような活動は理想と現実といった主客の分離や対立がなく、「自分との調和を為している活動」であるといえる。

より良く生きるには、自分が楽しくできることや快さが何なのかをぼんやり考えていれば良い。そして実行する。そのためにする活動(時間の確保や、最低限生活できるだけの活動)はその時点で目的を伴ってしまい、その点において観照的活動が、不完全であることを示しているが、贅沢な時間を過ごすためのものであるのだから、その活動も二義的な善であると捉えたい。

善い経験は虚無感を生まない。空虚な毎日を送る人も、ただなんとなくぼんやりと生活している人も、一度立ち止まって自分にとって快い活動とは何なのかを是非考えていただきたい。善い経験は周囲にも良い影響を与える。快い気持ちでいる人が側にいることは、リラックス効果をもたらすからである。私達は、自己充足的な生き方を共にすることでさらなる充足が図れるのである。

 

本当にざっくりとしたまとめしかできなかったが、まとめる前よりもクリアになって自分は満足である。要約にあたって自分の解釈でしか書けない部分というものが出てきてしまったため、本人の意図とは異なる部分もあるかもしれないが、その場合はご指摘願いたい。

やりたいことを書き出してみる

まずは音楽について考えたい。以前「音楽に求めていること」で「最低限やりたいことはある」と言っていたが、具体的に言葉にしたことがなかったため、書いてみる。

 

emi0x0.hatenablog.com

はじめに、音楽がなにものであるかを自分なりに明らかにしたいという欲求がある。というかそれがもう音楽に求めていることで一番多く占めている欲求であろう。既存の音楽を理解し、味わい尽くしたい。音楽における美とは何なのか、そして音楽はどのように、あるいはなぜ人々を魅了するのか知りたい。

つぎに、音楽の成り立ちを理解できたら、自分で再構築したい。どのように音楽が音楽として成り立っているのか、自分で表現できて初めて真に理解したと言える気がする。

そして、自分が心地良くなれるポイントを探りたい。気持ち良いと感じる音楽を作りたい。音楽に関しては、書き出してみればなんてことのないように思えるほどである。

 

では音楽以外でやりたいことを考えてみる。

これは音楽とは少し離れるし、ここでは言えないのだが、今中断しているあることを推し進めたい。これは絶対に叶えたい、というか叶えられると思っているからそんなに心配していない。音楽の方がずっと不透明でやりにくい。

芸術に関しても、もっと理解を深めたいと思っている。特に西洋美術には興味津々だ。文学もなかなか踏み込めていないが、面白そうな分野である。いつかエンデの『はてしない物語』を原著で読みたいが、まず本が手に入らないし、ドイツ語に触れたことが一切ないのでやるか分からない。

あとは、ハンドメイドでコンスタントに作れる何かを作り続けたい欲求がある。いろいろと本を見て作れはするものの、なかなか自分自身のレシピで作るということができずにいる。どうやったら自分で作ったと胸を張って言えるものが作れるのだろうか。

 

私が一生のうちでやりたいことってこんなものだろうか。少なくとも今は思いつかない。皆も自分のやりたいことを書き出してみると面白いかもしれない。

やりとり

勝手に期待して、期待が裏切られて苛立ちを覚えた。

誤解だよと人はいうが、誤解でもなんでもなかった。

単に私はその人々にとって存在しなかったのだ。

その程度だっただけの話。

それは一向に構わない。

ただ、それを人は何故か隠そうとした。

それが全く許せないのであった。

何故偽善者振るのだろうか。一体何のために。

 

ある人はメッセージカードを添えたプレゼントを渡してきた。

心の篭った演出だな。嬉しいものである。

しかし、その文章の型を見るなり、以前他の人に贈った時のメッセージとほぼ同じ型をしていたことに気づき、呆れた。

中途半端なことをするぐらいなら始めからメッセージカードなんてよこすな、と思った。

私はメッセージカードを渡さなかった。きっとそれで正解だったと思う。

 

人が偽善者振るのは相手のためでなく、自分自身のためなんだろう。

しかしそんな見栄のために私を巻き込まないでいただきたい。

そう切に願う。

人々は音楽のどこを聴いているのか。音楽の聴き方

『音楽の聴き方』という本があるように(内容はほとんど忘れてしまったが)、音楽には聴き方の型が存在する…という説がある。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

 

 曖昧な表現をしたのには理由があって、音楽は何の予備知識もなく聴くべきだ!という意見もややあるからだ。おそらく予備知識なしで聴くことは、聴くというより「感じる」という表現が適切ではないかと思う。音を音響として、響きとして体で感じるといった具合だ。音楽を分類してそれごとの聴き方で聴くというより、感じるままに聴けば良いのではないか、だから聴き方なんて存在しない!などという話になるわけだが、それもまた1つの聴き方の型にすぎないともとれるわけだ。

それに、そのように「感じるままに聴こう」と発言した人の好きな音楽に着目すると、実は共通項があって聴き方の型が見えることもある。例えば旋律を中心に聞いている人は、伴奏にはあまり意識が向かない。声を聞いている人は、その曲がどういう形式であるとか、編成がどうとか、歌詞の意味がどうとかまで考えていないことがある。本人は無自覚だがそのように人には聴き方の癖があることに留意したい。

これは作り手にも同様のことが言える。様々な要素が絡む以上、作り手はさすがに「◯◯を意識しない」といったことは聞き手よりは少ない。作り手の多くはテンポや旋律や、和声や、リズムや、形式など様々なところに配慮をする。しかし、作り手にもまた、聴き方の癖が存在している、あるいは主張したい部分がある。コードを重視して作ると旋律がぎこちなくなったり、ベースラインを意識した結果メロディはシンプルになったりとパターンは様々である。

では、その中で実際どのように音楽を鑑賞すれば良いのか。「適切な音楽の聴き方」と表現してしまえば、不適切な音楽の聴き方があんのかよ、という話になるので、鑑賞の自由の妨げにならないようにそうは言わないが、音楽がより面白く聞こえる聴き方があったら良いな、と私は思うのでこういう聴き方もあるよと、提案という形にしたい。

大前提として音楽は一曲一曲が違う。生まれた時代や、どんな文化のもとにできたものかといった背景や、編成、形式といった内容がそれぞれ異なる。そこを掴むとより深く音楽が鑑賞できる、かもしれない。音楽を鑑賞するということは、音楽に没入することであり、陶酔する側面があるが、音楽を理性的に捉えるということはその側面からやや離れることになる、それは一概には良いとは言えないかもしれない。そのため曖昧な表現を使った。ただ、今までなんとなく聴いていた人にとって様々な要素を意識するということは、それまでと違う音楽体験ができるわけだ。これは音楽が好きならたまらないことなのではないだろうか。知らなかったこと、なんとなく曖昧だったものが鮮明になる、分かるという感覚。それはきっと楽しいものになる。

と、ここまで話して大前提からいきなりまとめに入ってしまったが、何が言いたいかというと、曲は意識すべき部分というものがそれぞれで異なるという話だ。「~べき」と表現するとやや語弊があるように思われる。その音楽はどこを聴かせたいのかという点であろうか。傾向として、クラシックなら和声を中心にアナリーゼしようとか、ボーカルがメインのジャケットのCDならボーカルの歌声や旋律を中心に聴こうとかそういうものはすぐに出てくるが、もっともっと聞き所はあるはずで、それを探すことが新しい鑑賞の仕方に繋がるし、曲を聴くことの面白さが増えていくきっかけになるに違いない。

次に、様々な音楽のいろんな要素を意識して聴く前に、自分の聴き方の癖がどうなっているのかを知ることが非常に重要になってくる。これは各々がこれまでどんな音楽体験をしてきたかで違ってくる。例えば、ある民族音楽しか聴いてこなかった人はその民族音楽的な音楽の聴き方しかできない。我々は義務教育で音楽教育を受けているため、そのような人はまず日本にはいないと思われるが、西洋音楽に触れたことのない人にとっての音楽とは、そもそも音律から何からがまるで違う世界にいる。そんな人がいきなり西洋音楽を聴いても「これは音楽ではない」と思うか「今までに触れてこなかった全く新しいものだ」と思うだろう。おそらく私たちは普段、西洋音楽を音楽だと捉えていて、それとは別に日本の音楽(民謡や童歌など)や民族音楽を別の枠組みの音楽と捉えている。

西洋音楽を音楽として捉えている場合、12音階であることや平均律であることというのは言葉を知らなくとも、感覚的にごく当たり前のこととして身に付いている。この根本から意識をして聴くことも面白いが、深くは突っ込まないこととする。(音楽をやる者にはぜひ一度は突っ込んで欲しいところである。)問題は、西洋音楽を音楽として聴くにあたって自分は何を重視しているのかということだ。

「この曲好き」「曲の良さを伝えたい!」となった時に人に伝える言葉は何であろうか。「歌詞良いから聴いて!」「ドラムかっこいい!」と自然に聞き所を人に話す場合もある。「何か分からないけど良い」ということもある。何か分からない良さを人に伝える時を除いて、良さが伝えられる場合、自分の聴き方の型はその言葉の通りとなる。楽器をやっている学生は、やはりその楽器に注目しているケースが多い。逆に言うと、他のパートの音を、聴いているメインのパートの背景にしがちである。この癖を自覚して他の音を聴くだけで違った世界が開けてくる。

問題は「何か分からないけど良い」場合だ。何か分からない時、好きな曲を集めて共通項を探ると何か見えてくるかもしれないし、やっぱり見えないかもしれない。何を学べばその良さが分かるのか、それが分からない。その場合は音楽訓練を受けている人に助言を求めるか、欲しい情報がありそうな分野から手当たり次第学べば良い。そこまでの熱意がない場合は、特に何もしなくてもそれはそれで良いと思う。

自分の聴き方の癖が分かったところで、ようやく新しい聴き方の型を手に入れる下地ができる。「自分は旋律重視で聴いていたんだな」「好きなコード進行というものがあるんだな」「こういう音が好きなんだな」というように、自分の聴き方の癖が分かると、何を意識していないかが見えてくる。そこを意識することで、様々な音楽を受容できるようになったり、今まで聴いていた音楽がさらに魅力的になったりする。複数の要素を同時に意識して聴ければ尚面白いかもしれない。

そして、普段聴かない音楽に触れると、新しい聴き方の型を見つけることがある。西洋音楽を一般的な音楽としてこの記事では定義したが、それに属さない音楽も多く存在している。そのような音楽に触れることもまた、鑑賞の楽しみを増やしてくれるだろう。また、音楽の話を人と共有する時も、音楽の新たな一面に出会うことができる。人から紹介された聴いたことのない音楽に触れれば新鮮に感じるのは当たり前のように思われるかもしれないが、それは少し違っていて、自分とは異なる聴き方の人が聴いている音楽だから新鮮に感じるという場合もある。聴き方の型を意識し、人と音楽について話すことで聴き方の型が増えていく。

 

私の興味のひとつとして、人々が音楽の何を、どこを聴いているかという問題がある。好きな音楽を示せても、その音楽のどこが良いのかまで説明してくれる人は少ない。音楽を陶酔するもの、そのような悦楽を求めるためだけのものであると考える場合、「何か分かんないけど良いもんは良い」という姿勢を崩そうとする人は極めて少ない。なぜなら分かってしまったら楽しみが減ることになり得るからだ。音楽の神秘性は一見知らないことにあるように思われがちである。(知ったところで分からないという感覚になる人は稀有。実のところ音楽はいくら分析したって問いかけに他ならないものであり、答え(分かるという感覚)は見つかるものでないと私は考える。)ただ、本当にそれが音楽の良さであるかは疑問であるし、かといって音楽を純音楽的に、内容を重視して聴くという聴き方が絶対に良いとも思えない。音楽鑑賞は読書よりも容易であると捉えられがちであるが、そうでないのかもしれない。音楽の要素として見つかってないものがまだ何か存在するかもしれないし、上記のように要素ごとに意識して音楽を聴くという聴き方の型自体もそのまま正解であるとは言えないだろう。しかし、そのようにして、聴くということが何なのかを探らなければ音楽の発展は見込めないだろうし、できれば多くの人がより真摯に音楽と向き合ってほしいなと考えている。そうすることで、音楽はより豊かに、多様になっていけるのだ。

音楽の何が知りたいのか

以前似たような話を書いたので一応貼っておく。

 

emi0x0.hatenablog.com

emi0x0.hatenablog.com

 

30分ぐらいはかけていたであろう、この記事をBackSpaceキーか何かで誤って消してしまったが気を取り直して再び書きたいと思う。

 

先日ある人と話をした。音楽の話というより、主にその人の進路についての話であった。他に適した言葉がありそうだが思いつかないので進路としておくが、ここでは進学や就職といったことではなく、今後学びたいこと、やりたいことといった意味合いである。こういった人の話を聞いていると自ずと自分はどうであるかということが気になるのが性分である。

 

私には指針がない。広大な音楽という分野で学びたいことが多すぎるように思われる。何か一貫性を持ってやっていることではない。このままで良いのかやや不安はあるが、一貫性を持つということにもある種の危険が伴うような気がして割り切れずにいる。しかし、一見一貫性がなくとも、自分は欲しい情報を欲しているに違いないのだから、学んだこと全てが繋がっていくものと期待しているところがある。

 

今私は音楽美学を中心に読書や勉強を進めているのだが、次に向かうとしたら何なのだろうかということをそろそろ決めたい。音楽美学は片足を突っ込んでみたら、存外に深い沼であったことを知り、迂闊に近づくべきではなかったと半ば後悔したこともあった、それほど奥が深い分野である。一生をかけて考えていられそうであるが、私がやりたいことは音楽美学にとどまらない。

 

また、西洋音楽といえば静寂を基盤とした楽音の美しさそれこそが音楽であり、それ以上もそれ以下もない。楽譜にある音、休符が音楽そのものであり、それを分析することが何よりも重視される傾向がある。そのような意味では理論が必要不可欠であり、理論をやらずに音楽をすることは文法を学ばずに小説を読んだり書いたりすることと似ている。しかし、私の興味は理論にはとどまらない。確かに具体的な内容を掴むことは大事であるため、文法を無視するわけにはいかないが、一生文法や語の意味を辿りたいわけではない。では、何に興味があるのか。

 

人と話した時に書店に行き、興味のあるコーナーを見て回った。何かヒントが得られそうである。私がまず向かったのは芸術の音楽コーナーである。理論系に目がいく。やはり何だかんだで理論は大事だ。自分はまだ不勉強な部分が多々あるので、理論は必要である。作詞についての本もこのコーナーにあった。作詞も興味がある。あくまで詩としてではなく、音楽と共にある言葉として、それもそれを紡ぐ側として興味がある。人物についての本にはあまり興味はない。その曲が作られた背景をないがしろにしがちであるため、少しは興味を持ったほうが良いのかもしれない。

 

次に向かったのは美術・陶芸のコーナーだが、今回の話とは関係がないので省略。

 

その次に向かったのはPC関係のコーナーである。DTMに関する本を眺めた。主にエフェクトの使い方や打ち込みについて興味がある。DAWを思いついた時のメモ代わりに使えれば満足で、曲を作ることそれ自体にはあまり興味がない。ツールとして上手く使えれば便利だなという気持ちはあるが、どうも私は創作に対しては他人より関心がないように思われる。

 

最後に見たのは工学のコーナーである。音響だ。特にシリーズになっているものに今一番惹かれていて、全て購入するつもりでいる。音響というと何か物理学的で冷たいイメージを持たれるかもしれないが、私が知りたいのは心との関係性である。なぜピアノの音は魅力的に聞こえるのかや、超音波や超低周波が人体に及ぼす影響などといった側面である。

 

このように振り返ってみると次にやるなら音響関連かなという結論に至った。そして、「なぜ音楽は魅力的なのか」を知りたいのだということに再度気づいた。具体的にどこをどう知りたいのかというところまでは辿り着けてはいないが、音楽心理学的なアプローチにしろ、音楽美学的なそれにしろ、できればあらゆる角度から多面的に音楽を捉えたいという欲求が自分にはあるのかもしれない。

 

音楽を追求したところで、私の生活には何の影響もないし、何か役に立つわけでもないが、知る喜びの前ではそんなことはどうだって良くなるのである。

 

追記

あと関係ない話だけど、洋書のコーナーは案外楽しい。特に何か国語かちょこっとできる人と行くとさらに楽しいと思う。『はてしない物語』があったら絶対に買いたい。