万華鏡の世界

自分と自分と時々君

善く生きること

私達は日々様々なことを考えながら、そして、多様な活動をしながら生きている。普段の生活に満足している人は多くはないかもしれない。私達が生きていく上で、より良い生き方とは何なのか考えたい。この記事が各々の生活に何か変化をもたらす契機になると良いなと思う。

思考をするだけで生き方に影響を及ぼせるのか、と読んだ人は思ったかもしれない。確かに生活を突然ガラリと変えることは難しいだろう。しかし、どう生きるかはどう生きたいかという思いで変わってくるものだと私は信じている。

 

そもそも生きるとは何だろうか。私達は意識をせずとも呼吸をしている。そして私達の体内では様々な活動が勝手に行われている。そんな体の活動とはよそに、意識の中では様々に知覚し、体験をしている。これらの活動を統合して生きるという言葉になっているといえる。

 

「善く生きること」という話は実は知人の記事が発端である。

silentterrorist.hatenablog.com

silentterrorist.hatenablog.com

私よりも丁寧に緻密に書かれているため、是非目を通して頂きたい記事であるが、彼の記事を全て把握するとなると相当の文字数をかけて読むことになる。であるから、もう少し噛み砕いてみたらどうなるだろうかという実験をしてみる。

 

簡単にまとめからざっくりいくと「善く生きること」とは善く経験することである。その経験が一体どんなものかというと、自分が快くやれる活動を指している。快くやれる活動にも種類はあるとされるが、とりわけ「自分との調和を為している活動」である。いきなり分からなくなったかもしれないが、そんなに難しいことではない。例えば、私達は何かの理想を持ってそうなりたいがために活動することがしばしばある。この場合、理想と現実のギャップに苦しむこともあるし、目的に縛られてしまう。こういった活動はごくありふれた普通の活動であるか、自分にとって良くはない活動となる。そして、そういった活動は自分と調和的でない活動であるといえる。

では、そうでない活動が具体的に何なのかというと、それは人にもよるのだが、「気ままに遊んでいるとき」が最も典型的な善い活動であるとする。具体的には散歩のようなものである。また、我を忘れて知的探求をするような営みもそれに該当する。結果のみを良しとするものでなく、過程を楽しめるものというのが特徴的である。そして、この観照的な活動とされるものは、意味をもたない。意味や目的が必要とされるものはそれだけで何らかの卑しさを引き入れてくるように私は思う。先に挙げた善いとされる活動(観照的活動)には、その卑しさがなく、意味や目的を明示する必要すらない。そのような活動は理想と現実といった主客の分離や対立がなく、「自分との調和を為している活動」であるといえる。

より良く生きるには、自分が楽しくできることや快さが何なのかをぼんやり考えていれば良い。そして実行する。そのためにする活動(時間の確保や、最低限生活できるだけの活動)はその時点で目的を伴ってしまい、その点において観照的活動が、不完全であることを示しているが、贅沢な時間を過ごすためのものであるのだから、その活動も二義的な善であると捉えたい。

善い経験は虚無感を生まない。空虚な毎日を送る人も、ただなんとなくぼんやりと生活している人も、一度立ち止まって自分にとって快い活動とは何なのかを是非考えていただきたい。善い経験は周囲にも良い影響を与える。快い気持ちでいる人が側にいることは、リラックス効果をもたらすからである。私達は、自己充足的な生き方を共にすることでさらなる充足が図れるのである。

 

本当にざっくりとしたまとめしかできなかったが、まとめる前よりもクリアになって自分は満足である。要約にあたって自分の解釈でしか書けない部分というものが出てきてしまったため、本人の意図とは異なる部分もあるかもしれないが、その場合はご指摘願いたい。

やりたいことを書き出してみる

まずは音楽について考えたい。以前「音楽に求めていること」で「最低限やりたいことはある」と言っていたが、具体的に言葉にしたことがなかったため、書いてみる。

 

emi0x0.hatenablog.com

はじめに、音楽がなにものであるかを自分なりに明らかにしたいという欲求がある。というかそれがもう音楽に求めていることで一番多く占めている欲求であろう。既存の音楽を理解し、味わい尽くしたい。音楽における美とは何なのか、そして音楽はどのように、あるいはなぜ人々を魅了するのか知りたい。

つぎに、音楽の成り立ちを理解できたら、自分で再構築したい。どのように音楽が音楽として成り立っているのか、自分で表現できて初めて真に理解したと言える気がする。

そして、自分が心地良くなれるポイントを探りたい。気持ち良いと感じる音楽を作りたい。音楽に関しては、書き出してみればなんてことのないように思えるほどである。

 

では音楽以外でやりたいことを考えてみる。

これは音楽とは少し離れるし、ここでは言えないのだが、今中断しているあることを推し進めたい。これは絶対に叶えたい、というか叶えられると思っているからそんなに心配していない。音楽の方がずっと不透明でやりにくい。

芸術に関しても、もっと理解を深めたいと思っている。特に西洋美術には興味津々だ。文学もなかなか踏み込めていないが、面白そうな分野である。いつかエンデの『はてしない物語』を原著で読みたいが、まず本が手に入らないし、ドイツ語に触れたことが一切ないのでやるか分からない。

あとは、ハンドメイドでコンスタントに作れる何かを作り続けたい欲求がある。いろいろと本を見て作れはするものの、なかなか自分自身のレシピで作るということができずにいる。どうやったら自分で作ったと胸を張って言えるものが作れるのだろうか。

 

私が一生のうちでやりたいことってこんなものだろうか。少なくとも今は思いつかない。皆も自分のやりたいことを書き出してみると面白いかもしれない。

やりとり

勝手に期待して、期待が裏切られて苛立ちを覚えた。

誤解だよと人はいうが、誤解でもなんでもなかった。

単に私はその人々にとって存在しなかったのだ。

その程度だっただけの話。

それは一向に構わない。

ただ、それを人は何故か隠そうとした。

それが全く許せないのであった。

何故偽善者振るのだろうか。一体何のために。

 

ある人はメッセージカードを添えたプレゼントを渡してきた。

心の篭った演出だな。嬉しいものである。

しかし、その文章の型を見るなり、以前他の人に贈った時のメッセージとほぼ同じ型をしていたことに気づき、呆れた。

中途半端なことをするぐらいなら始めからメッセージカードなんてよこすな、と思った。

私はメッセージカードを渡さなかった。きっとそれで正解だったと思う。

 

人が偽善者振るのは相手のためでなく、自分自身のためなんだろう。

しかしそんな見栄のために私を巻き込まないでいただきたい。

そう切に願う。

人々は音楽のどこを聴いているのか。音楽の聴き方

『音楽の聴き方』という本があるように(内容はほとんど忘れてしまったが)、音楽には聴き方の型が存在する…という説がある。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

 

 曖昧な表現をしたのには理由があって、音楽は何の予備知識もなく聴くべきだ!という意見もややあるからだ。おそらく予備知識なしで聴くことは、聴くというより「感じる」という表現が適切ではないかと思う。音を音響として、響きとして体で感じるといった具合だ。音楽を分類してそれごとの聴き方で聴くというより、感じるままに聴けば良いのではないか、だから聴き方なんて存在しない!などという話になるわけだが、それもまた1つの聴き方の型にすぎないともとれるわけだ。

それに、そのように「感じるままに聴こう」と発言した人の好きな音楽に着目すると、実は共通項があって聴き方の型が見えることもある。例えば旋律を中心に聞いている人は、伴奏にはあまり意識が向かない。声を聞いている人は、その曲がどういう形式であるとか、編成がどうとか、歌詞の意味がどうとかまで考えていないことがある。本人は無自覚だがそのように人には聴き方の癖があることに留意したい。

これは作り手にも同様のことが言える。様々な要素が絡む以上、作り手はさすがに「◯◯を意識しない」といったことは聞き手よりは少ない。作り手の多くはテンポや旋律や、和声や、リズムや、形式など様々なところに配慮をする。しかし、作り手にもまた、聴き方の癖が存在している、あるいは主張したい部分がある。コードを重視して作ると旋律がぎこちなくなったり、ベースラインを意識した結果メロディはシンプルになったりとパターンは様々である。

では、その中で実際どのように音楽を鑑賞すれば良いのか。「適切な音楽の聴き方」と表現してしまえば、不適切な音楽の聴き方があんのかよ、という話になるので、鑑賞の自由の妨げにならないようにそうは言わないが、音楽がより面白く聞こえる聴き方があったら良いな、と私は思うのでこういう聴き方もあるよと、提案という形にしたい。

大前提として音楽は一曲一曲が違う。生まれた時代や、どんな文化のもとにできたものかといった背景や、編成、形式といった内容がそれぞれ異なる。そこを掴むとより深く音楽が鑑賞できる、かもしれない。音楽を鑑賞するということは、音楽に没入することであり、陶酔する側面があるが、音楽を理性的に捉えるということはその側面からやや離れることになる、それは一概には良いとは言えないかもしれない。そのため曖昧な表現を使った。ただ、今までなんとなく聴いていた人にとって様々な要素を意識するということは、それまでと違う音楽体験ができるわけだ。これは音楽が好きならたまらないことなのではないだろうか。知らなかったこと、なんとなく曖昧だったものが鮮明になる、分かるという感覚。それはきっと楽しいものになる。

と、ここまで話して大前提からいきなりまとめに入ってしまったが、何が言いたいかというと、曲は意識すべき部分というものがそれぞれで異なるという話だ。「~べき」と表現するとやや語弊があるように思われる。その音楽はどこを聴かせたいのかという点であろうか。傾向として、クラシックなら和声を中心にアナリーゼしようとか、ボーカルがメインのジャケットのCDならボーカルの歌声や旋律を中心に聴こうとかそういうものはすぐに出てくるが、もっともっと聞き所はあるはずで、それを探すことが新しい鑑賞の仕方に繋がるし、曲を聴くことの面白さが増えていくきっかけになるに違いない。

次に、様々な音楽のいろんな要素を意識して聴く前に、自分の聴き方の癖がどうなっているのかを知ることが非常に重要になってくる。これは各々がこれまでどんな音楽体験をしてきたかで違ってくる。例えば、ある民族音楽しか聴いてこなかった人はその民族音楽的な音楽の聴き方しかできない。我々は義務教育で音楽教育を受けているため、そのような人はまず日本にはいないと思われるが、西洋音楽に触れたことのない人にとっての音楽とは、そもそも音律から何からがまるで違う世界にいる。そんな人がいきなり西洋音楽を聴いても「これは音楽ではない」と思うか「今までに触れてこなかった全く新しいものだ」と思うだろう。おそらく私たちは普段、西洋音楽を音楽だと捉えていて、それとは別に日本の音楽(民謡や童歌など)や民族音楽を別の枠組みの音楽と捉えている。

西洋音楽を音楽として捉えている場合、12音階であることや平均律であることというのは言葉を知らなくとも、感覚的にごく当たり前のこととして身に付いている。この根本から意識をして聴くことも面白いが、深くは突っ込まないこととする。(音楽をやる者にはぜひ一度は突っ込んで欲しいところである。)問題は、西洋音楽を音楽として聴くにあたって自分は何を重視しているのかということだ。

「この曲好き」「曲の良さを伝えたい!」となった時に人に伝える言葉は何であろうか。「歌詞良いから聴いて!」「ドラムかっこいい!」と自然に聞き所を人に話す場合もある。「何か分からないけど良い」ということもある。何か分からない良さを人に伝える時を除いて、良さが伝えられる場合、自分の聴き方の型はその言葉の通りとなる。楽器をやっている学生は、やはりその楽器に注目しているケースが多い。逆に言うと、他のパートの音を、聴いているメインのパートの背景にしがちである。この癖を自覚して他の音を聴くだけで違った世界が開けてくる。

問題は「何か分からないけど良い」場合だ。何か分からない時、好きな曲を集めて共通項を探ると何か見えてくるかもしれないし、やっぱり見えないかもしれない。何を学べばその良さが分かるのか、それが分からない。その場合は音楽訓練を受けている人に助言を求めるか、欲しい情報がありそうな分野から手当たり次第学べば良い。そこまでの熱意がない場合は、特に何もしなくてもそれはそれで良いと思う。

自分の聴き方の癖が分かったところで、ようやく新しい聴き方の型を手に入れる下地ができる。「自分は旋律重視で聴いていたんだな」「好きなコード進行というものがあるんだな」「こういう音が好きなんだな」というように、自分の聴き方の癖が分かると、何を意識していないかが見えてくる。そこを意識することで、様々な音楽を受容できるようになったり、今まで聴いていた音楽がさらに魅力的になったりする。複数の要素を同時に意識して聴ければ尚面白いかもしれない。

そして、普段聴かない音楽に触れると、新しい聴き方の型を見つけることがある。西洋音楽を一般的な音楽としてこの記事では定義したが、それに属さない音楽も多く存在している。そのような音楽に触れることもまた、鑑賞の楽しみを増やしてくれるだろう。また、音楽の話を人と共有する時も、音楽の新たな一面に出会うことができる。人から紹介された聴いたことのない音楽に触れれば新鮮に感じるのは当たり前のように思われるかもしれないが、それは少し違っていて、自分とは異なる聴き方の人が聴いている音楽だから新鮮に感じるという場合もある。聴き方の型を意識し、人と音楽について話すことで聴き方の型が増えていく。

 

私の興味のひとつとして、人々が音楽の何を、どこを聴いているかという問題がある。好きな音楽を示せても、その音楽のどこが良いのかまで説明してくれる人は少ない。音楽を陶酔するもの、そのような悦楽を求めるためだけのものであると考える場合、「何か分かんないけど良いもんは良い」という姿勢を崩そうとする人は極めて少ない。なぜなら分かってしまったら楽しみが減ることになり得るからだ。音楽の神秘性は一見知らないことにあるように思われがちである。(知ったところで分からないという感覚になる人は稀有。実のところ音楽はいくら分析したって問いかけに他ならないものであり、答え(分かるという感覚)は見つかるものでないと私は考える。)ただ、本当にそれが音楽の良さであるかは疑問であるし、かといって音楽を純音楽的に、内容を重視して聴くという聴き方が絶対に良いとも思えない。音楽鑑賞は読書よりも容易であると捉えられがちであるが、そうでないのかもしれない。音楽の要素として見つかってないものがまだ何か存在するかもしれないし、上記のように要素ごとに意識して音楽を聴くという聴き方の型自体もそのまま正解であるとは言えないだろう。しかし、そのようにして、聴くということが何なのかを探らなければ音楽の発展は見込めないだろうし、できれば多くの人がより真摯に音楽と向き合ってほしいなと考えている。そうすることで、音楽はより豊かに、多様になっていけるのだ。

音楽の何が知りたいのか

以前似たような話を書いたので一応貼っておく。

 

emi0x0.hatenablog.com

emi0x0.hatenablog.com

 

30分ぐらいはかけていたであろう、この記事をBackSpaceキーか何かで誤って消してしまったが気を取り直して再び書きたいと思う。

 

先日ある人と話をした。音楽の話というより、主にその人の進路についての話であった。他に適した言葉がありそうだが思いつかないので進路としておくが、ここでは進学や就職といったことではなく、今後学びたいこと、やりたいことといった意味合いである。こういった人の話を聞いていると自ずと自分はどうであるかということが気になるのが性分である。

 

私には指針がない。広大な音楽という分野で学びたいことが多すぎるように思われる。何か一貫性を持ってやっていることではない。このままで良いのかやや不安はあるが、一貫性を持つということにもある種の危険が伴うような気がして割り切れずにいる。しかし、一見一貫性がなくとも、自分は欲しい情報を欲しているに違いないのだから、学んだこと全てが繋がっていくものと期待しているところがある。

 

今私は音楽美学を中心に読書や勉強を進めているのだが、次に向かうとしたら何なのだろうかということをそろそろ決めたい。音楽美学は片足を突っ込んでみたら、存外に深い沼であったことを知り、迂闊に近づくべきではなかったと半ば後悔したこともあった、それほど奥が深い分野である。一生をかけて考えていられそうであるが、私がやりたいことは音楽美学にとどまらない。

 

また、西洋音楽といえば静寂を基盤とした楽音の美しさそれこそが音楽であり、それ以上もそれ以下もない。楽譜にある音、休符が音楽そのものであり、それを分析することが何よりも重視される傾向がある。そのような意味では理論が必要不可欠であり、理論をやらずに音楽をすることは文法を学ばずに小説を読んだり書いたりすることと似ている。しかし、私の興味は理論にはとどまらない。確かに具体的な内容を掴むことは大事であるため、文法を無視するわけにはいかないが、一生文法や語の意味を辿りたいわけではない。では、何に興味があるのか。

 

人と話した時に書店に行き、興味のあるコーナーを見て回った。何かヒントが得られそうである。私がまず向かったのは芸術の音楽コーナーである。理論系に目がいく。やはり何だかんだで理論は大事だ。自分はまだ不勉強な部分が多々あるので、理論は必要である。作詞についての本もこのコーナーにあった。作詞も興味がある。あくまで詩としてではなく、音楽と共にある言葉として、それもそれを紡ぐ側として興味がある。人物についての本にはあまり興味はない。その曲が作られた背景をないがしろにしがちであるため、少しは興味を持ったほうが良いのかもしれない。

 

次に向かったのは美術・陶芸のコーナーだが、今回の話とは関係がないので省略。

 

その次に向かったのはPC関係のコーナーである。DTMに関する本を眺めた。主にエフェクトの使い方や打ち込みについて興味がある。DAWを思いついた時のメモ代わりに使えれば満足で、曲を作ることそれ自体にはあまり興味がない。ツールとして上手く使えれば便利だなという気持ちはあるが、どうも私は創作に対しては他人より関心がないように思われる。

 

最後に見たのは工学のコーナーである。音響だ。特にシリーズになっているものに今一番惹かれていて、全て購入するつもりでいる。音響というと何か物理学的で冷たいイメージを持たれるかもしれないが、私が知りたいのは心との関係性である。なぜピアノの音は魅力的に聞こえるのかや、超音波や超低周波が人体に及ぼす影響などといった側面である。

 

このように振り返ってみると次にやるなら音響関連かなという結論に至った。そして、「なぜ音楽は魅力的なのか」を知りたいのだということに再度気づいた。具体的にどこをどう知りたいのかというところまでは辿り着けてはいないが、音楽心理学的なアプローチにしろ、音楽美学的なそれにしろ、できればあらゆる角度から多面的に音楽を捉えたいという欲求が自分にはあるのかもしれない。

 

音楽を追求したところで、私の生活には何の影響もないし、何か役に立つわけでもないが、知る喜びの前ではそんなことはどうだって良くなるのである。

 

追記

あと関係ない話だけど、洋書のコーナーは案外楽しい。特に何か国語かちょこっとできる人と行くとさらに楽しいと思う。『はてしない物語』があったら絶対に買いたい。

『君の名は。』を観てきた。ネタバレあり。


「君の名は。」予告


「君の名は。」予告2

 

トピック「君の名は。」について

内容について具体的に指摘をしていくのはなんか違うなという感想を持ったので、あまり内容に触れはしないが、ネタバレ要素として今回はハッピーエンドなんだな!という大きな変化がある。

これまで新海誠の作品といえば片想いがほぼ片想いのままに描かれるものが多かった。(観ていない作品もあるので断定はできないが)そのすれ違いの様を鮮明に描くことただそれだけに注視したような作品ばかりだった。ぶっちゃけそういう類のものであるから、脚本が後付のようになっていて上手く噛み合わずに、かなり雑な印象を受けたものだ。しかし、今回はぱっと見た感じではそういった違和感は見受けられなかった。

細かい内容を見ていくと矛盾点が多く見つかる、現実味のない部分が多いとは思うものの、脚本としてはこれまでで最高の出来ではないだろうか。おそらく一般大衆向けに作られたものとして人々に受け入れられるクオリティに仕上がっている。

片想いの切なさや時間経過とともに薄れていく記憶の虚しさや、これまでのテーマとなっているモチーフを大事に扱いながらも新しい面を見せることに成功したようなそんな印象を受けた。

ただ、ジブリを始めとする他の作品と比べると特別に脚本が素晴らしかったという意味ではない。これまでの新海誠の作品は、それだけ脚本がひどかったというだけの話である。脚本以外で評価が上がっていたからこそ、今回及第点に乗ったこの作品にはそれだけ意味があるものとして留意する必要がある。

 

しかし、彼の作品の良さは脚本ではない。並外れた背景の美しさとそれに合う響きの美しい音楽だった。少なくとも私はその点を評価し続けてきた。今回はどうであったか。

今回、おそらく初めて?色彩設計や撮影関係から新海誠の名が外れていた。私が特に好きだった記憶色の多用や赤と青のコントラストの使い方を拝むことはできなかった。より自然に現実味を帯びた世界になり、彼の作品らしさが損なわれてしまったように感じた。本当にそれで良かったのだろうか。そこは彼が譲らずに取り組んだほうが良かったのではないか。背景の詳細さに人は魅了されていたわけではない、その写真と見紛うほどの細かさに反した、現実では有り得ない色彩の世界に魅了されていたのではないか。

というのは一般化しすぎであるが、私はそのように感じていたのだ。そのアンバランスさが好きだったのだ。

そして音楽にも問題がある。特徴的だった音楽が何もひっかからない無個性なものになってしまったことである。おそらく『秒速5センチメートル』で惹かれた人は多いであろう、天門の音楽が今回はない。彼の音楽は良くも悪くも印象的であったし、あれだけ響きに特化した音楽に出会すことはそうない。響きの美しさが全てであった音楽は、色彩の美しさが全てであった新海誠の絵と相性が非常に良かったのだと、失われた今になって分かる。メジャーなアーティストを起用すれば確かに聴きやすく、簡単に人に受け入れられるクオリティになるのだろうが、私は天門の音楽は新海誠の絵と共に成長していくものだと期待していた。今回その成長した姿が見られなかったのは非常に残念なことである。

 

奇妙なことではあるが、私は彼の作品の不器用さに惹かれてしまった立場であるため、脚本が良くなったところで何も喜べない。ただ綺麗な色彩を期待し、ただ綺麗な響きの音楽がそこにあれば良かった。でも、それらはもう失われてしまったのだ。これからは、全く別物として鑑賞していくしかないのだろう。

片想いの果ては自らの問題ばかりで

片想いは変だ。相手のことが良く見えない。

自分のことばかり見える。

孤独が私の目を濁すようだ。

それを避けようと孤独を感じる時には相手を求めないようにしている。

相手を思い続けるということがどういうことなのか分からない。

相手のことを考えていても、いつの間にか自分の問題ばかりにぶつかってしまう。

自分は相手の望むような語りができない。

もとより相手の望むようなものを想定してしまうことは傲りなんだろう。

とはいえ語る力がなさすぎる。

君の興味の内にいない。

元々外側の人間だ。

いつも片想いのうたを書くと、孤独に結びついてしまう。

片想いの関係性を描けるはずもなく、独りよがりになってしまう。

同じテーマを延々と書き続ける私は、見えない牢獄の中に閉じ込められているようだ。

例え何らかの形で結ばれたとして、

つまり相手が私を見てくれたとしても、それは決して「繋がった」という体感にならない。

永遠に片想いは片想いのままである。

言葉や体や行為を重ねても埋まらない何かを抱えながら、

延々と孤独について考えながら死んでいくのだろうと思う。

また、君にとって興味のないことであっても、私は読書をやめないし、勉強の方向性を変えることはないだろう。

君が興味をもっていることに、君が興味をもっているからもつのでなく、

自分の興味が君とたまたま重なれば良いなという片想いを抱いて生活したいから。

 

誤解のないように注釈しておくと、この「君」はブログを見られる人のいずれかであるという意味ではない。

去ってしまった人含めて私が片想いしている相手皆を意味する。